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祐真朋樹が振り返る、トム・フォードとエディ・スリマンのリブランディング/中編

最近、『リブランディング』という言葉をよく聞くようになった。その意味はといえば、既存のブランドを時代や顧客に合わせて再構築すること。僕はファッション業界で、このリブランディングを成功させた事例をいくつか見てきた。前回の「祐真朋樹が振り返る、トム・フォードとエディ・スリマンのリブランディング/前編」も読む。

Text: Tomoki Sukezane / Edit: Akihiro Furuya

エディがモダナイズしたディオールの新しい魅力。

エディ・スリマンはディオール・オムを大成功させて2007年に退任。エディとは1997〜98年頃にサンローラン・ジーンズ(福助とのライセンスブランド)の仕事で知り合った。

それ以前にもジョゼ・レヴィのショールームで会ってはいたが、話をしたことはなかった。ちゃんと話をしたのはその半年後。サンローラン・ジーンズのショーについて話を聞いて欲しいということで、水谷美香さん(パリ在住のファッションディレクター)の紹介で会った。

当時の僕は、サンローランに興味はなかった。実際、当時はスリッパやトイレの便座カバーやマットなど、あらゆるものにYSLマークが入ったライセンスものが溢れていた時代だった。そんなサンローラン・ジーンズに関して、一体僕は何を言えばいいのだ……という感じ。

今はなき原宿の〈カフェ・デ・プレ〉にやってきたエディは、ワインレッドのジャケットを着ていた。僕の印象は、「デリケートで口数は少ないが、決して横柄ではなく、優しそうな印象」。東京の食事が口に合わないと、辛そうにしていた。
そんな彼に僕が伝えたのは、「東京でショーをやるならモデルはパリから連れて来た方がいい」ということ。そして、「日本にはデニムマニアが多いからハードルは高いよ」。この2点だった。

そしてその1週間後、僕は立野浩二さん(デザイナー)に誘われて、パリのサルワグラムであったシルヴィ・グランバック主催のファッションイベントに出席していた。
ジャン=ポール・ゴルチエ、テュエリー・ミュグレーなどの大御所が何やら賞をもらって大喜びしていた。フランス人中心の身内ノリのイベントだったが、新人賞はアメリカ人のジェレミー・スコットが受賞した。

ジェレミー・スコットを実際に見たのはそれが初めてだったが、イザベラ・ブロウにエスコートされ、たいそう目立っていた。そんな中、遠くの方から近づいて来たのが、1週間前に原宿で会ったエディだった。
広い会場内の端と端にいたというのに、わざわざ僕を見つけて来てくれるエディ。「この人、めっちゃええ人やん」と思った。

そんなこともあり、彼を応援したくなった。以降、パリのメンズコレクションに来たら、エディのイヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ・オムを見に行くようになった。エディはこのブランドで5回のコレクションを発表したが、僕が見に行くようになったのは3回目から。正直、3回目と4回目はピンと来なかった。当時、パリのメンズコレクションで話題をさらっていたのはラフ・シモンズだった。

そんな時期に、エディはサンローラン・ジーンズのコレクションを、東京の神宮前スタジオで発表した。僕のアドバイスに従ったのか、彼はパリから素人同然の新人モデルを30人ほど連れてきていた。それに加えて東京でも数名キャスティング。なんと木村拓哉さんもモデルとして登場した。コレクションは大成功だった。
エディも大喜びで、打ち上げはカスバだった。来日したモデル達も、その夜は朝まで大騒ぎ、半端ない盛り上がりだった。

エディがパリで5回目のイヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ・オムのコレクション(確か2000年)を行ったときには、PPRとトム・フォードがイヴ・サンローランを買収した話が業界全体に伝わっていた。
エディはこの先どうするのだろうと心配しながら、そのコレクションを見た。するとそのショーは、それまでとは全く違った垢抜けた力強いスタイルに変貌を遂げていた。

東京でのサンローラン・ジーンズのコレクション体験は、彼にとって間違いなくターニングポイントになったのだと感じた。その後は、ディオール・オムでのデビューへと繋がってゆく。彼は、まず着せたいモデルを見つけて、そのモデルに合わせて服を作るというスタイルを完成させていった。

インビテーションへのこだわりはまるでアート作品の如く。それはジョゼ・レヴィのアートディレクター時代から引き継がれているものである。
サンローラン・ジーンズの仕事をした頃、僕は彼に「気になるデザイナーは?」と訊いたことがある。エディは「ラフ・シモンズ」と答えた。そんなこと、媒体で伝えられたことはないと思う。が、ある時代、彼は確かにそうはっきりと言った。

ブランドへの愛と情熱が、また新しい何かを作り出す。

エディがディオール・オムを辞めて以降、彼とコンタクトを取ることはなくなった。
一度だけ、2013年のサンローランのコレクション後に挨拶に行ったことがあるが、その際も握手するだけで終わった。ディオール・オムは彼がやる以前にはなかったブランドだから、厳密にはリブランディングとはいえないのかもしれない。

でも、僕の中でディオールというブランドの印象が、それまでと大きく変わったのは確かだ。僕にとって、それまでのディオールはオートクチュールなお姫様ドレスというイメージしかなかったが、それがエディによって一気にモダナイズされ、身近なジーンズや美しい白いシャツとなって登場したのだ。

ディオールの印象は明らかにエディによって塗り替えられた。これもまたリブランディングと呼ぶにふさわしいと僕は思う。そして2007年。ニューヨークにトム・フォードの旗艦店がオープンした。
オープン当日、僕は朝9時に、その日の一番客として2階のビスポーク専用のソファに腰掛けていた。前夜、カーライルホテルで開催されたオープニングイベントの夕食会で飲んだアルコールは残ったまま。

目の前にはモーニングを着た執事(洋服屋さんに何で!?)が注いでくれたKRUGがフルートグラスに美しく輝いていた。店内に飾られたジャコメッティのオブジェや美しい盆栽を眺めながら、僕はテーラーが来るのを待っていた。
約束は9時なのに、9時半になっても彼は来ない。でもこの空間を堪能できるなら、もう少し遅れて来ても構わないという気分になっていた。

僕の頭には、前夜のディナーに参加していたゴージャスな顔ぶれが浮かんでは消えていた。隣のテーブルでは、ジュリアン・ムーアやグウィネス・パルトロウ、アナ・ウィンターがトム・フォードを囲んでいた。そしてその横のテーブルには、テリー・リチャードソンや、グランジな風貌の彼氏を連れたクロエ・セヴィニー。

トム・フォードは、自社の関係者は一人も入れず、プライベートな空間を演出していた。彼はパーティーの作り方が上手い。いつだって仕事関係者と、上っ面だけではない真の交流の時間をスマートに作る。そしてさらに10年前のシーンが蘇った。

1996年、彼が日本でグッチのショーをするために、大勢のイケメンモデルとスタッフを引き連れて来日したときのことである。その時は、『BRUTUS』の取材でトムが宿泊していたパークハイアットの部屋でインタビューをした。

とてもカジュアルな雰囲気。取材する側は、編集長、副編集長、そしてライターと僕の4人。インタビューは至極和やかだった。トムは終始笑顔を絶やさなかった。そして、翌日の夕方、突然連絡が来て、ニューヨークグリルでの打ち上げに招待された。このときも会社の関係者は抜きで、と知らされた。

とはいえ、僕ひとりで行くのはいささか不安だったので、急遽、スタイリストの野口強さんと馬場圭介さんに頼んで一緒に来てもらった。案内されたトム様御一行のテーブルは総勢10名。日本人は一人もいない。2人に付いて来てもらって救われた。3人はトムの指示によって、それぞれ御一行の合間にバランスよく座ることに。僕はトムの隣に座った。このときもトムは超が付くほどの上機嫌。スタッフは全員グッチのスーツを着ていた。

そして全員がROLEXのサブマリーナをしていた。何故にサブマリーナだったのか、その理由はわからなかったが、格好よかった。東京でのコレクションイベントが大成功だったことを意味しているのだと思った。トム・フォードと向き合って話をしたのは、それが初めてだった。

トム・フォードのグッチ、そしてエディ・スリマンのディオール・オム。ブランドが姿を変え、成功していくのを近くで見られたことは、とてもエキサイティングで貴重な体験だった。
リブランディングの楽しさをほんの一部でも共有できたことは、僕にとっての大きな財産である。リブランディングの成功に不可欠なことは、ディレクターのブランドに対する愛と情熱だと思う。それがなくては成り立たない。

ファッションの世界では、ビジネスを考える以上にクリエイティブが尊重されなくては成功しないように思う。今流行りの言葉で言えば、「クリエイティブ・ファースト」でないと、コレクションブランドの価値も魅力も生まれない。腰掛けデザイナーのようなスタンスでは、リブランディングはなし得ないのである。