私の本棚の、主。歌人・伊藤紺

折に触れて読み返したり、一読の衝撃が忘れられなかったり。あるいは、腐れ縁のようになぜかずっと捨てられなかったり。自身の本棚に鎮座する“主(ぬし)”のような本を題材に、歌人・伊藤紺さんがエッセイをしたためた。

illustration: Tomo Oriyama / edit: Emi Fukushima

カツ丼は届かなくても、十年変わらずそこにある

十年前、就職を機に実家を出てスカイツリーの近くに引っ越した。短歌をはじめて三ヶ月。読書は別に趣味ではなかった。真っ白の小さな部屋に実家から持ってきた本は雑誌含め二十冊ほど。狭すぎて本棚は置けず、冷たい床に積んでいた。吉本ばなな『キッチン』との出会いはもう覚えていないが、その二十冊のうちの一冊だ。

会社は結局半年で退職した。駆け出しのライターとして辛酸を舐めまくっている時期に失恋も重なり、週二十回くらい泣いていた。いつ何が人生級の苦しみになるかはわからない。表面上ありふれているように思えることが、内実全くべつの、その人の核にかかわる問題であることはべつにめずらしくない。泣きながら、みかげが雄一に届けたカツ丼の味を想像した。ぼろぼろのわたしに誰かがカツ丼を届けに来ないかと本気で思って、待った。誰も来なかった。一人で切り抜けていくべき闇だった。

それから三度の引っ越しを経て、本は七百冊ほどに増えた。本棚は縦横ともに自分の背丈ほどのものをメインに、積読用のタワー型のものと、元テレビ台の3種を使っている。『キッチン』が置かれているのはメイン棚の真ん中。他の本に囲まれてぬくぬくとしている。

この十年、わたしのために寒空の下、カツ丼を届けてくれる誰かは来るときは来たし、来ないときは来なかった。来たけどちがうなーってときもあった。ただ、本当においしいカツ丼は待っていないときにだけ来た。未熟なわたしの部屋でほのかにずっといい匂いをさせている、重要な一冊。

『キッチン』吉本ばなな/著
両親と祖母を亡くし、孤独になった大学生の桜井みかげ。ひょんなことから祖母の知人だった大学生の田辺雄一とその母・えり子との共同生活を始めたことを機に、少しずつ悲しみから回復していく。著者のデビュー作。現行版は新潮文庫/539円。
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