箭内道彦
感謝、されたいですよね。家族は見返りを求めない無償の愛で成り立つ関係なのだと考えても、やっぱり言葉にしてほしい時がある。嬉しく、それで救われ、また頑張れるのだとも思います。ある知人の家族は、家族の間で何かを相手にしたことに対してお礼を言われると、必ず「イッツ・マイ・プレジャー」と微笑み返します。そうすると感謝する側も感謝を言いやすくなる。「ありがとう」と「マイ・プレジャー」のワンセット。そういう瞬間も「自分を生きている」っていうことなのではないかと僕は思いました。
エリイ
娘の立場からの目線ですが、うちのお母さんは私が子供の時も、思春期の時も成人した後も寝ている私の横でガンガンガンガン掃除機をかけ続けました。静かにしてよ!と言ってもかけない日はたったの一日もなく、ハタキを振り雑巾で床を拭き続けます。今から夜ご飯を食べに出かけるからと伝えに居間に行くと晩ご飯は?ご飯食べて行きなさい何にする?餡掛け八宝やきそばね、と答える間もなくテーブルに食事が並んでいく。何十年も揺るがずに自分を生きているのを目の当たりにし続ける。ありがとう、感謝しています。
大根 仁
1980年、アナーキーというパンクバンドが「何が日本の象徴だ、何にもしねぇでふざけんな」と歌っていて、短絡&バカなパンクス気取りの中学生の僕は「そーだそーだ!」と拳を上げていたわけですが、大人になって象徴とされる方のとんでもないスケジュールの「すべての国民の幸せを願う」公務を知り、申し訳ない気持ちになりました。その仕事は主婦と似ている気がします。「自分を生きる」の自分とは、まさに自分であり、他人にとやかく言われる筋合いはないのです。すなわち、何にもしねぇでふざけんな!なのです。
窓辺で創作すれば音楽も外に開いていく。音楽家・蓮沼執太が語る窓