ずっと日本のジェントルマンに愛されてきた
どん!と銀皿にそびえ立つ有頭大海老のフライ(“東京一大きい”と評判だ)、その隣に艶々のデミグラスソースがまぶしいビーフシチュー。祝祭感いっぱいの盛りつけと確かな味わい、C定食、お値段千七百円……すべてがたまらない。
でも、私は、とびきりおいしいという理由だけで〈レストラン桂〉に来るのではない。お得だからでもない。年季の入った木の扉を押すのは、「この町で生まれた、この町にしかない洋食」に逢いたいからだ。
日本橋室町。江戸の頃から第一線のオフィス街だった日本橋は、最新の商業施設が軒を並べて今どきの顔をしているけれど、この土地に根を生やす道しるべのような存在がある。日本橋が変わっても、変わらなくても、風雪をくぐり抜けながら看板を掲げ続けてきた数々の店。〈レストラン桂〉も、そのうちの一軒だ。創業一九六三年。表のショーケースに並ぶ料理サンプルの風情も、なかなかシブい。
一歩入ると、「来てよかった」といつも思う。整然と並ぶテーブル、白いクロス。心なしかお客さんの背中が伸びている気がするけれど、おたがい〈レストラン桂〉で肩を並べるうれしさを共有している。手渡されたメニューを開き、むちっと食べ応えのあるハンバーグ、さくさくの衣のメンチカツ、生カキのフライ……あれこれ迷いながら、とにかく最初はコーンポタージュスープだ、と気を落ち着かせる。白いスープ皿になみなみ注がれた品のよい風味のひと皿三百五十円、ああやっぱりうれしい。
〈レストラン桂〉はもともと日本橋に二軒あった洋食店の名前である。現在、二代目を継ぐ手塚清照(きよあき)さんの父、正昭さんがコックとして働いていた店だが、オーナーが閉店を決めた。理由は「家賃が高すぎて儲からない」。三十手前だった正昭さんは一念発起、あちこちから資金を掻き集めて愛着のある店の権利を買い、六三年、妻の清美さんや兄弟二人とともに家族総出で新スタートを切った。
夫は厨房、妻はサービスと経理担当。日本橋はサラリーマンの多い町だから、いかに安くてうまい料理で胃袋を掴(つか)むか、腕前と知恵と工夫で勝負を挑む。ハンバーグは当時百五十円、カレーライスやグラタンなど洋食の定番のほか、レバー好きのお客に頼まれれば「チキンレバーライス」をメニューに加え、「スパゲティ・イタリアン」はトマトケチャップとデミグラスソースを合わせ、どこにもないオリジナルの味。高級志向には目もくれず、地元で愛されることだけ考えてきた。
じつは、昨年春、八十代まで現役を貫いてきた正昭さんが亡くなった。父の隣で厨房に立ってきた長男、清照さんが引き継ぎ、御年八四歳の愛称「ママさん」、清美さんも変わらずサービスとレジ係を務めている。
「看板娘でやらしてもらってます。経理の電卓叩きますし、暗算もできますよ。みなさん、『やっぱりおいしい』『味が変わらないね』言うて帰ってくれはるのがうれしい。夜、お酒飲んで長居してる常連の方にはね、私『早く帰ってちょうだい』って顔をしてるみたい」
アハハと笑う看板娘は大阪出身、「主人には言ってないけど、お金の工面はいろいろしましたよ」。清美さんは、お客との信頼関係を培うゴッドマザーでもあった。
〈レストラン桂〉には、昼と夜の顔がある。昼は定食中心、夜は通常メニューに加え、「自慢のいっぴん」と名づけたおつまみ。壁際の棚にずらりと並ぶウィスキーのボトルは、日本橋のジェントルマン御用達の居酒屋としても愛されている証である。夜に酒とつまみを出せば、一日に二度来てもらえる──独自の2WAYスタイルもまた、町のひとびとに寄り添って生まれた。
二代目の清照さんは一九七七年生まれ。洋食修業ののち、二十代半ばで〈レストラン桂〉に入った当初、父のレシピに戸惑ったりもしたけれど、毎日厨房に立ちながら父のやり方を尊重してきた。「変わらない味」と支持を集めるのは、レシピの伝承だけではなく、町に愛されることを眼目としてきた両親の生き方への敬意なのだろう。
「今でこそ日本橋はにぎやかですけれど、うちはずっと、町の小さな洋食屋なんですよ。ときどき『この値段で大丈夫なのか』と心配されることもあるんですが(笑)」
メニューの数は減らさず、値段を変えたのは消費税が上がったときくらい。常連さんに頼まれて父が即興でこしらえた夜メニュー「かつおぶしスパゲッティ」も健在だ。清照さんは、日本橋の料理組合の青年部が組織する〈三四四会〉にも所属し、町の興隆にも尽力している。
最後に少しだけ、私の話。洋食を食べていると、晴れ晴れと明るい気分になれる。かつて文明開化を後押しした、時代のアイコンを享受するうれしさや興奮、外食の幸福感。そこに「町の味」「家族の味」が加わる〈レストラン桂〉の存在そのものが、私にとって最高のご馳走だ。