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長野・霧ヶ峰。美食の山小屋で考える、“山の上の哲学”〜後編〜

市井の人々と一緒に哲学する活動を続ける永井玲衣さん。「山で哲学してみたい」と、秋の霧ヶ峰へ。フレンチのフルコースが食べられる美食の山小屋で口福にあずかりつつ、登り、考えた。前編はこちら

photo: Moe Kurita / text: Rei Nagai

そこにある哲学、 
そこにあった山

文・永井玲衣

ああ心細いなあ、と山道を登りながら思った。とぼとぼ、とぼとぼ、という音が、自分の歩いた道から聞こえるような気がする。静けさが自分の中にだんだんと満ちてくる。ゆっくり、でも「ちゃんとひとりになる」感覚だ。

思えば、考えるということも、どこか心細い。強い恐怖や、不安ではない。深く、深く、自分の中に潜っていくとき、さみしさのような、ゆるやかな心細さに包まれることがある。これまで自分に巻き付いていたものが、わたしから離れていく感覚があるからだろうか。

わたしが情けなかろうが、勤勉だろうが、だらしなかろうが、関係なく生えている植物たちが、わたしの身体をぷつぷつと刺す。風がとても強かった。顔をもみくちゃにされているみたいだった。「いつもはこんなに風は吹かないんです」と同行してくれたひとが言った。

そうか、この山にも「いつも」はあるのだった。わたしがいなくても、誰もいなくても、山には「いつも」の時間が流れている。「それにしてもいい山だなあ」と、辺りを見回してそのひとはつぶやいた。もう一人が「いい山だねえ」と笑った。

「いい山」というのは面白い。だがたしかにわたしも「いい山」と思った。どの山も「いい」のだろうか。知りたくなった。わたしは山に登ったことがなかったのだ。

旅があまり好きではなかった。レジャーもほとんど経験したことがない。一度カヤックに乗ったことがあったが、あまりに下手でガイドさんを心配させた。旅に出てリフレッシュしたらどうですか、と言われるたびに、そうなのかなあと思った。リフレッシュとは何なのだろう。

山に登って「人生が変わった」というひとがいる。本当なのだろうか。うつくしい星空を見て、大自然に触れて、山頂に到達して、人生は本当に劇的に変わってしまうのだろうか。

山道を登りながら考える。わたしはこの旅で人生が変わってしまっただろうか。何かがリフレッシュされたのだろうか。 

静かな気持ちのまま、山小屋に入る。 床がみし、みし、と音を立てて、わたしの奥底に響く。「雨の山小屋なんて、やることがなくて最高ですよ」と同行者に言われる。「やる」ことはなくても、いくらでも「いる」ことはできる。「やる」ことがないと「いる」ことができないこの社会で、それはどんなにいいだろう。 

長野県 鷲ヶ峰山
鷲ヶ峰山頂へ続く、気持ちのいい尾根。“念入りな散歩”が趣味であり日課という永井さん、初めての登山にもかかわらず、軽快な足取りで先を歩き、疲れ知らずだった。

山小屋で、ものを食べる。思考がゆっくり進むように、ゆっくりと味をたしかめる。「おいしい」、と簡単に言ってしまいたくない。うつくしい世界とふたたび出会いなおすことができるような感覚。そうだった、そういえばわたしには食べるという、とても大切なことがあったのだと、はじめて思い出す。

哲学も山も食も、あるいは旅も、日常から切り離すことはできない。本当はずっとそばにいる。山に入れば、哲学をすれば、おいしいものを食べれば、すごい旅をすれば、人生がまるで変わってしまうわけではない。気分が一新されるわけではない。そのわかりにくさ、しぶとさが、いい。

だが、時間をかけて山道を登り、山小屋で過ごし、車や電車で帰っていくとき、友人と語り合い、ぐるぐると遠回りをしながら考え、思考を何とか動かそうとするとき、山の上や山小屋で食を味わうとき、たしかに何かが変わっている。劇的な変化ではない。もっと後を引くような、これからもずっと続いていくような文脈のある変容だ。

日常の煩わしさも、憂鬱さも、さりげない喜びも、山には連れていける。そして、山で出会ったうつくしさも、とぼとぼ歩く心細さも、静けさも、わたしの日常に持ち帰ることもできる。何も切り離す必要はない。それらはずっとそこにある。