そこにある哲学、
そこにあった山
文・永井玲衣
ああ心細いなあ、と山道を登りながら思った。とぼとぼ、とぼとぼ、という音が、自分の歩いた道から聞こえるような気がする。静けさが自分の中にだんだんと満ちてくる。ゆっくり、でも「ちゃんとひとりになる」感覚だ。
思えば、考えるということも、どこか心細い。強い恐怖や、不安ではない。深く、深く、自分の中に潜っていくとき、さみしさのような、ゆるやかな心細さに包まれることがある。これまで自分に巻き付いていたものが、わたしから離れていく感覚があるからだろうか。
わたしが情けなかろうが、勤勉だろうが、だらしなかろうが、関係なく生えている植物たちが、わたしの身体をぷつぷつと刺す。風がとても強かった。顔をもみくちゃにされているみたいだった。「いつもはこんなに風は吹かないんです」と同行してくれたひとが言った。
そうか、この山にも「いつも」はあるのだった。わたしがいなくても、誰もいなくても、山には「いつも」の時間が流れている。「それにしてもいい山だなあ」と、辺りを見回してそのひとはつぶやいた。もう一人が「いい山だねえ」と笑った。
「いい山」というのは面白い。だがたしかにわたしも「いい山」と思った。どの山も「いい」のだろうか。知りたくなった。わたしは山に登ったことがなかったのだ。
旅があまり好きではなかった。レジャーもほとんど経験したことがない。一度カヤックに乗ったことがあったが、あまりに下手でガイドさんを心配させた。旅に出てリフレッシュしたらどうですか、と言われるたびに、そうなのかなあと思った。リフレッシュとは何なのだろう。
山に登って「人生が変わった」というひとがいる。本当なのだろうか。うつくしい星空を見て、大自然に触れて、山頂に到達して、人生は本当に劇的に変わってしまうのだろうか。
山道を登りながら考える。わたしはこの旅で人生が変わってしまっただろうか。何かがリフレッシュされたのだろうか。
静かな気持ちのまま、山小屋に入る。 床がみし、みし、と音を立てて、わたしの奥底に響く。「雨の山小屋なんて、やることがなくて最高ですよ」と同行者に言われる。「やる」ことはなくても、いくらでも「いる」ことはできる。「やる」ことがないと「いる」ことができないこの社会で、それはどんなにいいだろう。
山小屋で、ものを食べる。思考がゆっくり進むように、ゆっくりと味をたしかめる。「おいしい」、と簡単に言ってしまいたくない。うつくしい世界とふたたび出会いなおすことができるような感覚。そうだった、そういえばわたしには食べるという、とても大切なことがあったのだと、はじめて思い出す。
哲学も山も食も、あるいは旅も、日常から切り離すことはできない。本当はずっとそばにいる。山に入れば、哲学をすれば、おいしいものを食べれば、すごい旅をすれば、人生がまるで変わってしまうわけではない。気分が一新されるわけではない。そのわかりにくさ、しぶとさが、いい。
だが、時間をかけて山道を登り、山小屋で過ごし、車や電車で帰っていくとき、友人と語り合い、ぐるぐると遠回りをしながら考え、思考を何とか動かそうとするとき、山の上や山小屋で食を味わうとき、たしかに何かが変わっている。劇的な変化ではない。もっと後を引くような、これからもずっと続いていくような文脈のある変容だ。
日常の煩わしさも、憂鬱さも、さりげない喜びも、山には連れていける。そして、山で出会ったうつくしさも、とぼとぼ歩く心細さも、静けさも、わたしの日常に持ち帰ることもできる。何も切り離す必要はない。それらはずっとそこにある。