「黙々の人」
各停電車はゆっくり東京を進む。隅田川の向こうから始まった私の帰路は、まもなく皇居というあたりで様相を変えた。青空を飾ったような窓に、小さな水滴が付き始めたのだ。
土砂降りに変わるのは一瞬だった。停車駅でドアが開くと、風に乗って雨粒がどんどん吹き込んでくる。雨風に追いたてられるようにビショビショの人間たちも乗り込んできて、それぞれ雨を拭っていた。空いている車内。座席に座っているほとんどの人は、ドアが開いた時にちらりと顔をあげただけで、ずっとスマホを見つめていた。
時折自分に降ってくる水飛沫を不審に思って顔をあげるけれど、濡れた乗客の姿を見ると納得したようにスマホに戻る。私もそのうちの一人だった。時折冷たさを感じるけど、誰かが身を捩ったんだろう。
そうしてぼんやり目を閉じていると、突然「ガンッ」と何かを叩くような音がした。焦って音の方に目を向けると、おじさんが席から立ち上がって窓を必死に押し上げている。
あぁ〜!窓開いてたんですか!だからですか!
おじさんは、開いた窓から吹き込んでくる雨に苛立ちながらも懸命に窓を閉めた。納得したように席に戻ったおじさんは、顔も手もびしょびしょだ。あの、ほんと、ありがとう。別にみんなの為、とかじゃないかもしれないけど、ありがとう。おかげでみんな、これ以上濡れずに済みます。電車内には静かな勇者。そして私は静かな村人。結局、ありがとうって言えなかった。
もしまた、どこかで優しさに出会ったのなら。これからは私、告げ口じゃあなくあなたに直接「ありがとう」と言いたい。そう思いながら、今は小さな会釈で御免!