巨匠の“新作”を読み解く行為にワクワクするから
オーソン・ウェルズは巨匠ですが、同時に不遇の作家でもあります。代表作を制作会社に散々カットされたり、なかなか企画を実現できなかったり、B級映画に携わり続けたり。一方で、舞台出身らしくシェイクスピアの古典を映画化もする。奇妙なバランス感覚の人です。
その遺作『風の向こうへ』も、ほかの人の手で仕上げられ、Netflixで公開されました。撮影だけで6年もかかるほどこだわり抜いたのに、自分で仕上げていない。ウェルズ自身の自己言及的な要素も多分に含みながら、結果的に作者以外の人間の手で完成させられた未完の作品なんです。
僕は本作にマルセル・デュシャンが未完成のまま放棄した「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(「大ガラス」)と共通したものを感じます。未完であることが、ある種のハッタリ/神秘化として機能し、両作品は永遠性を獲得している。絶対的な核心に触れることができないからこそ、永遠に戯れていたくて、繰り返し鑑賞してしまう。
そして、自分が映画を観るようになった頃には既に“巨匠”だったウェルズですが、その48年越しの“新作”は、まだしっかりと評価が定まっていない。自分で読み解く自由が許されていることにも、ワクワクします。