動画にはない「想像の余地」こそ、山の本の魅力
山岳文芸の不朽の名作から、最近のベストセラー、図鑑や漫画まで、山にまつわる多様な作品をラインナップする「ヤマケイ文庫」。今や動画サイトで詳細な登山ルートの解説が見られるが、それでも多くの人が山岳書籍を手に取る理由を、創刊編集者の萩原浩司さんはこう推察する。
「動画サイトを見ると、その山からどんな風景が見えて、どんな行程で、どんな危険があるか、手に取るようにわかって便利です。でもその半面、“想像する”機会が奪われてしまうことも。登山というのは、山頂に立つ喜びはもちろん大きいですが、想像を遥かに超えたものに出合えた、感じられたときの感動が醍醐味だと私は思っています。本を読んで、そこで触れられていたほんの数行の風景描写から想像を膨らませる。それを抱きつつ実際に登ったとき、どう感じるか。その素直な気持ちを大切にしていただけたらと思います」
さらに、山の本は登山をより面白くしてくれる存在でもある。
「本を読んでから山に登ると、その成り立ちなど、ちょっとした雑学や知識が頭にあるので、初めて登った山でもいろいろと発見があって楽しいものです。例えば、なぜこの滝はこんな名前が付けられたのか。その背景を本で学んでから実際に見てみると、なるほど納得! なんてこともあります。霊山では、かつての修験者たちの足取りを知っていると、より厳かな気持ちになれたりすることも。本は、山での発見や想像を後押ししてくれる存在でもあります」
登山をより豊かに、奥行きを持って楽しむ機会を与えてくれる山の本。萩原さんのお勧めを硬軟織り交ぜて紹介しよう。
『山と溪谷 田部重治選集』近藤信行/編
「古典なので、ちょっと読みづらいかもしれませんが……でもやっぱり、まずはこれ。登山を取り巻く環境は昔と随分変わりましたが、それでも普遍的な登山の魅力がこの本には詰まっています。これから山を目指す方にこそ、ぜひ読んでいただきたい」
田部重治は明治17年生まれの英文学者。日本山岳会の木暮理太郎とともに日本アルプスの未開の山々を踏破し、日本の近代登山の黎明期を築いた人だ。
「田部は日本アルプスの長期縦走などと同時に、 ひっそりとした森が広がる奥秩父の山稜や沢を歩き、逍遥的な登山を好まれた人でもあります。この本の中で田部は登山を通して得た心持ちについて、こんなふうに記しています」
『山に登るということは、絶対に山に寝ることでなければならない。山から出たばかりの水を飲むことでなければならない。(中略)そして山その物と自分というものの存在が根底においてしっくり融け合わなければならないと。』
「山で一泊することで、山の威圧が親しみに変わり、ついには山が自分の一部であり、自分がまた山の一部であるという心持ちになってくる。それは登山の大きな魅力であり、かけがえのない体験です。日帰り登山も楽しいものですが、ぜひ経験を積んで、田部の抱いたこの気持ちを体感していただきたいですね」
『山小屋の灯』小林百合子/文、野川かさね/写真
「山の魅力を感じるために欠かせない“山に泊まる”という行為。登山ではテント泊と山小屋泊という2種類の泊まり方がありますが、まずは登りやすい山の山小屋泊がおすすめです。そんな山小屋泊の魅力を教えてくれるのがこの本」
『山小屋の灯』は、山小屋を愛する女性文筆家と写真家が2年間で訪れた16軒の山小屋について綴ったエッセイ。日本アルプス、八ヶ岳、富士山、尾瀬など、全国の個性豊かな山小屋で過ごした日々が記録されている。
「魅力的なのは、それぞれの山小屋で出会った主人たちとの交流が丁寧に描かれていて、その中から山の魅力を引き出している点。山の数だけ山小屋があって、そこに暮らし、登山者を迎える人がいる。山小屋とは単に夜露をしのぐ建物ではなくて、“人”なんだな。その人に会いに行ってみたいな。この本を読んでいると、そんな思いが湧き上がってきます」
自分が好きだと思う山小屋が見つかったら、そこでのんびり過ごすのもおすすめなのだとか。
「談話室の本の選書や並べ方ひとつにも、主人の個性が表れていて面白いものです。天気が悪ければ、ここでゆっくり本を読んで、居心地のいい時間を過ごすのもいい。この本の著者たちも、富士山の山小屋で一夜を過ごし、山頂に登らず下山しています。山での過ごし方に決まりはない。そんな自由さも教えてくれます」
『若き日の山』串田孫一/著
「詩人であり、哲学者でもあった串田孫一は、山の文学に新たな地平を開いたと言われています。情景描写の鋭さ、思索の奥深さ、そして文体の美しさと優しさ。どのエッセイも素朴で、派手さありませんが、その何気ない文章の中に、想像の余地が広がっています」
中でも萩原さんが好きなのは、串田氏の初めての著作である『若き日の山』。タイトル通り、遠ざかってしまった、忘れがたい山と、そこで過ごした時間について綴ったものだ。
「実際に歩いた山のことが綴られていますが、中には具体的な地名や山名が出てこないものもあって、それがいい。山に登ったことがある人は、あそこのことかなと想像するのが楽しいですし、登ったことがない人は、自由に空想ができる。氏が自分に投げかける問いは、自然と私たちにも向けられて、思索の扉をトントンと優しく叩いてくれます」
かつて山は「思索の場」と言われていた。串田作品は、まさにそうした山の一面を見せてくれる。
「レジャーやリフレッシュのために山に登るのもいいものですが、自然と対峙し、自分の内面と向き合えるのも登山の魅力だと思わせてくれる一冊です」
『足よ手よ、僕はまた登る「ミニヤコンカ奇跡の生還」からの再起』松田宏也/著
最後に紹介するのは、山に行ってみたいけど、なかなか一歩が踏み出せない……という人にぜひ読んでもらいたい本。
「筆者は1982年5月、中国の高峰・ミニヤコンカ(7556m)登山中に悪天候に阻まれて遭難。19日間におよぶ苦闘の末に奇跡の生還を果たしました。極度の飢えや凍傷、そして仲間の死……。その壮絶なサバイバルドキュメントは同じくヤマケイ文庫から刊行されている『ミニヤコンカ奇跡の生還』に詳しいですが、本書は筆者のその後を記した記録です」
凍傷で両手指のほとんどと、両足の膝下を失った筆者。登山者として、また社会人としての再起を目指し、リハビリを続けた日々が綴られる。
「最初は歩くことすらできなかった筆者が、会社に復帰し、また山へ向かっていく。遭難から40年、彼は今、義足を付けて愛する山を登っています。この本を読むと、少々の挫折やうまくいかないことも、きっと乗り越えて行けるという勇気をもらえます。山に行きたいけど、様々な事情で『やっぱり無理だよな……』と思っている人へ。そんなことはありません。時間がかかっても、山への想いがあればきっと大丈夫。そんなふうに背中をそっと押してくれるような一冊です」