詳細を語らず、感情をモンタージュで表現すること
夢から覚めたら泣いていたみたいな感覚を覚える作品でしたが、本作のアイデアはどこから来たのでしょうか。
マチュー・アマルリック
実は友人のローラン・ズィゼルマンが舞台演劇として企画して、叶わなかった戯曲で、「僕はもう諦めたから、君にあげるよ」と渡されたことが始まりでした。
読んだときに、悲しい出来事に遭った主人公の女性が、拒絶のメカニズムとして、自身の想像力で前に進もうと、なんとか生き延びようとしている。その行為自体が痛切で胸を打つし、美しいな、と思った。
悲劇的なことが起こると、本当に生きているのが辛くなりますよね。例えば、好きな人と別れたときもそんな感覚になる。相手はもう隣にいなくても、その人との人生を少し妄想することはあるんじゃないかなと考えたんです。
戯曲を読んでいた電車の中で、久しぶりに泣きじゃくったそうですが、普段、あまり泣くことはないんですか?
マチュー
人生において、やっぱり泣けなきゃダメだなとは思うんですが、よく泣く方ではないですね(笑)。でもまあ、今回の僕の泣き方っていうのはちょっと尋常じゃなくて、僕の何かの神経に反応したんですよね。
ただ、その瞬間はこの話を映画にしようとは思わなくて。プロデューサーの2人から新しい映画のアイデアについて聞かれたときに、この戯曲の話をしたら、彼女たちもそれを読んで同じようにすごく感動して。
誰かと共有できる物語だと確信して、戯曲の中に映画にできそうな素材はないかを探し始めました。ちなみに、執筆している間は、日本文化についてすごく考えていたんですよ。
物語自体に、日本の文化と近い感覚を覚えたということでしょうか。
マチュー
戯曲を読んだときも、ヨーロッパというよりも、日本文化で起こり得る話なのではと感じましたし、だからこそ日本のみなさんともシェアできるんじゃないかと思いました。
この映画は、ジャンルで言えば、ファントム映画になるのですが、同時にハイパーリアリズム(超写実主義)でもあるんです。それは日本映画では馴染みのジャンルじゃないかと。
黒沢清さん、河瀨直美さん、諏訪敦彦さん、宮崎駿さん、そして、亡くなったことがとても悲しい青山真治さんが作るものもそうですが、人は精霊を感じながら生きています。そういう意味では、本作はファントム映画でありながらも明らかにメロドラマなので、その2つのジャンルが衝突しているんです。
周縁から、物語を浮かび上がらせる
本作では、車、家、家具、ピアノなどが記憶をつなぐ装置となっていますね。
マチュー
脚本を書く前に、出てくるオブジェをまずリストアップしました。戯曲では、生活の中にある物が彼女の想像力の中で動きだすという仕組みになってたので、それが映画の可能性も広げるんじゃないかと思ったんです。
なので、それぞれのショットに出てくるオブジェの位置は固定せず、主人公と一緒に動いていくようにしました。物のイメージから映像、音響、音楽が生まれる。そうやって連想することは大切にしています。
ご自身も、物に対する思い入れは強い方なのでしょうか?
マチュー
見るとその人を思い出すという物は家にたくさんあります。今、次回作のために読んでいる本の間には、恋人との写真を挟んでいて。彼女を思い出すだけで、愛をもらえる。みんな、そういう物を必要としているんじゃないかな。
わかりやすさが求められる中、マチューさんの作品はその圧力に抵抗しているようにも思えるのですが、いかがでしょう?
マチュー
いやいや、わかりやすいストーリーを物語ることができるなら、その方が、例えば子供たちはよっぽど喜ぶんだろうなと思いますが(笑)、僕にはできなくて。バラバラの記憶であったり、匂いであったりを彷彿とさせながら、物語を浮かび上がらせていく方が、僕自身には合っているというか、僕ができることなんですよね。