異端を包括する社会が、どうしたら実現するのか
マヒト
さっきの欠損がある主人公の話と似ているとも思ったんですけれど、映画に登場するホームレスは、意図的に登場させているんです。
自分の幼少期の記憶で、ホームレスのおっちゃんに遊んでもらった経験があるんだけど、その人は街の観察者で知性を感じる人だったんですね。だから、ホームレスが「社会的弱者」と呼ばれることに違和感があって。そういう人を街から排除することを「クリーンアップする」と呼ぶのって、どういう神経しているんだろうと思う。
今みんなスマホばっかり見て歩いているし、ノイズキャンセリングのイヤフォンで音も遮断して、誰も街なんて見ていないでしょう。色々なものが加速しているけれど、街中にずっと身を置いているホームレスの人からしか観測できないようなものもあると思ってる。力を持たざる者とされている人たちの視点がすごく大切なんじゃないですかね。
───赤坂さんは1986年に出版した『排除の現象学』の中で、「異質なるものを限りなく排斥する地点になりたつ、閉ざされたコミュニティから、異質ものを豊かに包摂してゆく、開かれたコミュニティへ。おそらく、この、ほとんど関係としての人間の宿命にあらがう二律背反的な隘路にしか、わたしたちの時代のコミュニティ存立の条件はもとめられない」と提言していました。それから40年近くの時が経ちましたが、社会の変化をどう感じていますか。
赤坂
80年代は、お笑いも残酷で、弱いものを笑う文化が圧倒的に広まりました。「あいつネクラだから」って言われた瞬間にもう回復できないようなダメージを喰らうような時代だったんです。
障がいのある人たちを、子供達が「しんちゃん、しんちゃん」って呼んでいたりした。親や先生はいじめはいけない、と言うから、「僕たちはいじめていないよ。しんちゃんと呼んでいるだけだ」と言って差別をするような、グロテスクな光景がありました。
そういった背景がある中で、1983年に「横浜浮浪者襲撃殺人事件」が起きてしまう。それから今まで、どんどん嫌な時代になっていっている感覚があります。
「差別をしていない」という身振りをしながら、巧妙に差別は続いている。いじめの問題も変わらないでしょう。
マヒト
隠し方や交わし方がアップデートされただけかもしれないですね。
赤坂
民俗学者として、共同体のなかで排除される人々について、観察を続けてきました。これまでそういう人たちは、排除されながらも生きていけるギリギリのところで生かされてきたんです。
例えば、九州のある地域では物乞いをする人を「勧進さん」と呼んでいるんですね。「勧進」は元は仏教の言葉で、僧侶が修行として庶民から寄付を集めた文化の名残です。「勧進さん」が来ると村の人々は自分たちも決して豊かじゃなくとも彼らを接待する、そういう文化的な仕掛けがあったんです。
四国遍路でも、お遍路さんは「お接待」をされますね。それらは良心から来る行動というよりも、自分もいつその立場になるかわからない、という緊張感もあったのだと思いますし、欠けたるものに施すという価値観が当たり前にあったのでしょう。
また仏教には、信者の家々を巡って生活に必要な食料を乞う、托鉢という修行があります。托鉢では、一人からお椀をいっぱいにしてもらうことはありません。これは誰か一人に従属しないことも示しています。
複雑な社会だからこそ“遊動の民”を見直す
赤坂
僕は、自分の最後の仕事としてもう一度“遊動”ということの意味を考えてみたいなと思っているんです。
日本人も当たり前に移動生活をしていたところから、集落を作って稲作をやって暮らすようになった。今から一万年前のことで、「定住革命」と呼ばれています。一つのところに留まって生活すると、そこに排泄物や死人が蓄積していくでしょう。これらは当時ケガレと考えられていました。それを処理しなくちゃいけない。
定住すると、自分たちが出すケガレとどういう風に付き合うかというのが最大の課題になるんです。人間の歴史の中でそれもうまくデザインされていて、中世の頃などが特にわかりやすいのですが、定住の時代にも変わらず村から村へと移動しながら暮らしている“遊動の民”がいたんです。
かれらは芸能や技術を携えており「職人」に分類されていましたが、次第に賤民として差別されるようになりました。村の内部では祓い切れないケガレを、かれら遊動の民がそのどこかマジカルな芸能や技術をもって浄化してくれる、と信じられていたのです。定住生活から生まれるケガレを共同体の内部で浄化することは難しい、限界があるんですよ。
死者の鎮魂も含めて、ケガレをなぜ問題と呼ばれた人たちに託したのか。そもそもなぜ死や死にゆく人たちをケガレとして忌み遠ざけるのか。かれらが欠かしえぬ存在として果たしていた社会的役割を考えてみたいと思っています。
───ケガレを浄化してくれる必要な存在なのに差別されてきたのはどうしてなのでしょう。
赤坂
ケガレと触れているからですよね。同じ人間だと思わないことで、その役割を押し付けることができた。あとは遊動から定住へと移行した時に、社会のモラルも変わったと言われています。
定住社会では、逃げる、裏切る、離れることが道徳的にマイナスになった。遊動社会では、逃げる、裏切る、離れることが負のモラルじゃなかったんですね。
我々の時代でも例えば学校でいじめられて、それでも逃げずに留まって死を選んでしまう子供がいるじゃないですか。逃げてしまえばいいんですよ、「もういいよ、頑張らなくていいから、逃げていいよ」と言うべきなんです。群れの中ではトラブルが避けがたく起こるんです。定住社会ではトラブルが起きた時に、あくまで力で決着をつけて集団のリーダーを決めるけれども、遊動社会ではさっさと仲間を連れて離れる、逃げる、避難することで生存が保たれていた。
我々の共同体では、ただ形骸化したモラルに縛られて、必死に留まろうとする。我々は今、定住の時代の終わりにいるんだと思った方がすごく面白い。
マヒト
学校に通っているときって、それしか知らないから世界の全てみたいに見えますよね。今思えば、なんでもないよね。自分の安全を担保してくれるわけでもない人ばっかりが、存在だけ大きくなっているように感じてしまうけれど、全然外にはいくつでも世界が広がっていてね。
───映画『i ai』に登場するのも異端の人たちですが、そのなかでも数人はより異質な存在として描かれていると思います。意識的にそういう存在を配置したのでしょうか。
マヒト
映画監督は、その世界に登場するキャラクターをデザインできる立場。作品の中でまっすぐ“人”を書こうとしたら、そういう存在の登場は避けられないよね。自分もどのキャラクターのことも内包しているし。
よく、「あの人は優しい人だよね」とか「怖い人だよね」って人を形容するけれど、一人の人の中に神も悪魔も天使も平熱も激情も混在していて、そんなシンプルな言葉で括れないじゃないですか。
赤坂
映画『i ai』を見ていて気がついたのですが、登場人物はみんな孤児(みなしご)だよね。最後にかれらの中から片親を持つ子が現れるけれど、それ以外はどのように生まれてきたのか、親や保護者がいたとしてもその影がすっかり消されている。孤児たちが集まって、新しい共同体を作っている話だよね。
マヒト
本当に、そうですね。自分がやっている音楽も「全感覚祭」という祭りも、今回やった映画も、毎回ひとつのトライブを形成してまたバラけて……。波長が合ったり、時がきたらぐっと集まるけれど、またそれぞれが海に出るというのを繰り返しているんです。
赤坂
それってさ、僕がさっき言った遊動社会そのものなんですよ。離合集散を原則とする「逃げられる社会」。離合集散をどれだけマイナスだと道徳的に否定したところで、そういう集団や場所は現代でも存在しているし、「逃げられる社会」に向けて穴ボコや隙間だらけにしていけばいいんです。中世史家の網野善彦さんが<無主・無縁>と呼んだアジールが、静かに広がってゆく気配を感じています。