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葬式は何のためにある?比較宗教学者・町田宗鳳と僧侶・松本圭介が語る

お布施、戒名、祭壇や生花……移りゆく世相の中で、多くの人々からその意義を問われつつある「葬式」に焦点を当ててヒットした新書から、思想としての仏教が再び人々の心の支えとして機能するための方途を、気鋭の宗教学者と僧侶が語ります。

初出:BRUTUS No.700『2011年、「世の中」を考える175冊。』(2010年12月15日発売)

photo: Kenta Aminaka, Megumi Seki / text: Kosuke Ide

2人が読んだ本:『葬式は、要らない』島田裕巳

『葬式は、要らない』島田裕巳/著
「日本人の葬儀費用は平均231万円」。諸外国と比べても格段に高くつく日本の葬式は、いつからこれほど豪華になったのか。巨大な祭壇や高額の戒名にはどんな意味があるのか。直葬、樹木葬、宇宙葬など多様な葬式のあり方も含め、変わりつつある葬式の現在を人気宗教学者がわかりやすく解説。歴史を振り返りながら日本人の死生観の変遷を辿り、「お金をかけられない時代」の葬式を考察した一冊。幻冬舎新書。

思想の流れを転換させ、葬式を「祭り」としてリクリエイトすべき

町田宗鳳

まず最初に、私の結論をはっきり述べておきましょう。葬式は、要りません。葬式などしなくても、人はただ死ねばいいんです。本当に大事なのは生き方ですから。20歳で死んでも80歳で死んでも、その人自身が自らの生を心からありがたく受け入れて死ねば大往生です。その意味では、本書の内容は情報としては過不足なくまとめられているものの、そのタイトルほどには主張が明言されておらず、もっとはっきり語ってしまってもいいのではないか、と感じました。

今から800年以上も昔に、すでに「お寺は要らない」と言った僧侶がいます。浄土宗の開祖、法然です。彼こそ、「死」をテーマにした思想家なんです。大昔から、死は多くの人間にとって恐怖であったわけですが、平安時代に爆発的に読まれた源信による『往生要集』という仏教書では臨終正念、つまり「死の瞬間に正しい思いを持っていないと地獄に堕ちる」とされ、何万回も念仏を唱えたり、厳しい戒律を守らないと極楽往生できないと教えられていました。

僧侶たちは「地獄絵」という形で、文字が読めない人々にもイメージでその世界を伝え洗脳したので、庶民は死の不安に怯(おび)え切っていた。法然が登場した12世紀の日本といえば、「保元の乱」「平治の乱」など戦乱が続き、また「養和の飢饉」があって京都中が死体で埋め尽くされたという過酷な時代ですから、その恐怖もまたピークにあったわけですが、彼はそこで「死は地獄ではない。癒しである」と言ったんです。

「人はいつどんな形で死ぬかわからない。死に方などは何の関係もない。ものを落とせば地面に落ちる。それと同じ確率で浄土へ行ける」。つまり、物理的法則として浄土に行くんだと。「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、僧侶も在家も男も女も金持ちも貧乏人も聖人君子も人殺しも、誰もが極楽往生できますよと、一切の条件をとっぱらった。

この逆転の発想に、迷信でがんじがらめになっていた当時の人々は目から鱗の思いだったでしょう。鎌倉時代には日蓮、親鸞、道元など独創的な思想家が次々と登場しますが、その扉を開いたのが法然なのです。彼は一人で、それまでの平安仏教を葬り、思想の流れを完全に変えてしまったんですよ。

そして、私は現代の葬式についても、大きな転換点を迎えていると考えています。近代文明は今、方向転換を迫られている。天然資源は枯渇し、環境破壊が進んでいます。文明のパラダイムシフトはそう遠くない時代に訪れるでしょう。そういった時代において、仏教の思想はこれからが出番ですが、お寺やお坊さんは退場を迫られている。本書にもある通り、これまでの葬式の形は崩れていくでしょう。

葬式も墓地も檀家も減り、寺院は加速度的に崩壊する。人間の死をテーマにして大ヒットした映画『おくりびと』の主役は納棺師であって、お坊さんはほとんど存在感がありません。それが実に象徴していると思いませんか。

それでは、葬式はこのままなくなればいいのか?冒頭でも話した通り、私は葬式をいったんは否定します。しかし、そこから「リクリエイト」すべきとも考えています。自分がどんな葬式をすればいいのか、私たちがゼロから考えればいいということです。

私は常々、「祭りの再生」ということを訴えています。我々は一生のほとんどをケの日として過ごしていますが、祭りの日はハレであり無礼講です。普段、会社のノルマや家族への義務感などさまざまなプレッシャーから抑圧している、人間の持つ本能的な「狂い」を解放して、元気になる日です。

リオのカーニバルでもルイジアナのマルディ・グラでも、人々が生を解放させ、爆発します。私たちは葬式をそのような「祭り」として再生すればよいのです。バリ島の葬儀なんか、盛大で華やかで、地元の人々に大人気ですよ。

本書の中にも「人生の最期をどう迎えるか、それは人生の掉尾を飾る仕事であり、自らの人生の総決算を行うということである」とありますが、自分がこの世から消えたとき、残された者たちにどれだけ希望を与える葬式ができるのか、その人ごとに考えればいいんです。

自分が死んだらどんな葬式をしようか、家族と一緒に相談してみればいい。きっと楽しいですよ。お坊さんもこれまでのようにマニュアル通りの作法をただ続けるだけじゃなくて、「葬式のプロデュース」に積極的に加わればいいのです。

私たちが今、息をしているこの瞬間も常に死は迫っています。自分がいつ死ぬのかは誰にもわかりませんが、全員が例外なく亡くなる以上、「死」は全人類にとって関わりのあるテーマです。現代の仏教を意義あるものへと変革し、再生していくために、ある意味では、葬式こそ最高の資源であると言えるのではないでしょうか。

町田宗鳳が選んだ3冊:よりよく生き、よりよく死ぬために

心のコーチとして、人生の締めくくりに寄り添いたい

松本圭介

島田氏はいわゆる「葬式仏教」を批判しつつ、実はお葬式って自分の好きにすればいいんじゃないか、お寺に頼まなくてもいいんじゃないか、と主張します。それはその通り、葬式の是非は個人の価値観に関わることで、他人が決めるような問題ではありません。

むしろ私は本書から、このままだと「葬式は、要らない」が「お寺は、要らない」になるかもしれないよという、お寺の現状に対する警鐘的メッセージを受け取りました。

仏教は「ブッダの教え」であり、実在のブッダが弟子の個性や状況に合わせて、さまざまな視点から臨機応変に説いた実践的な教えです。その集大成としてまとめられたものが「経典」という形で現在まで伝わっているわけです。この経典は基本的に誰もが触れることができる、万人がアクセス可能なものです。

それでは、お寺やお坊さんがなぜ存在するのか。私なりにいえば、「ブッダの教えを個々人の生き方の中に取り入れていくプラットフォーム」です。仏教においては、超越的な存在を「信じる」必要はありません。道を拓(ひら)かれたブッダとその弟子たちを先生として、同じ道を自分なりに「歩む」のが仏教の流儀です。

仏道を歩むなかで、その教えが「心の栄養素」として人間のなかに取り入れられたときに、初めて仏教はその真価を発揮します。しかし、いくら栄養がある食べ物でも、一度に消化できる量は限られている。その人の年齢や体質によって必要なメニューも変わってくるし、またいきなり体質改善しようとしても難しい。

人生の長い時間をかけてじっくり付き合っていくということが仏教でも大事です。人生の成長過程を気長に支えてくれるコーチのような存在がお坊さんだと、私は思っています。

しかし、翻って現状を考えてみたとき、お坊さんと一般の方々の間にそういう関係ができているお寺はそう多くありません。「お寺に若い人たちが来てくれない」と嘆く住職さんもおられますが、私はむしろ、比較的お寺によく来てくださる年配の方とのつながりの「濃さ」もまだまだ改善の余地があるという気がします。

お年寄りの方々は、病気になったりして体力が弱り、お寺の法話会に行きたくても行けなくなることがある。人が一番弱っている、苦しいときにこそ心の支えが必要なのに、そこに役立つことができていない。私はお寺でいつも歯痒さを感じます。

その点、最近東京のお坊さんたちの間で始まった「プロジェクトダーナ」というお年寄りへの傾聴活動は、このジレンマを解消してくれるものと期待しています。人生の締めくくりとなる大事な時期を、どう心豊かに生き抜いていただくか。そこに寄り添うことは、心のコーチの大きな仕事です。

では、人生を終えられた後の、お葬式のあり方をどう考えるべきか。ある意味で、お葬式では実はご遺族などの「残された方」が主役です。だから、「葬式が要る/要らない」という話はご遺族の思いであって、お寺やお坊さんが決めることではありません。お寺に葬式を頼む人が減ってきたから困ったぞ、もっと増やさなければ、などということではないのです。お願いされる限り、心を込めてお参りさせていただくのみです。

私は今、インドのビジネススクールのMBA(経営学修士)コースで学んでいます。経営やMBAというと、お寺の収益を増やすことのように思われがちですが、お寺は通常の企業と違い、お金の流れは一つのサステナビリティファクターにすぎません。それよりも、そもそもお寺が何のためにあるのか、お寺を預かるお坊さんは何をすべきなのかという、お寺やお坊さんの「コアバリュー」を問うことこそが重要です。

仏教は歴史と伝統が長い分、受け継いだものを繰り返すことも多いですが、その奥にある本来の意味を問い返さないといけない。仏教のコアバリューを現代社会の枠組みの中で形にしていくために、現状あるリソースを生かし、目標に向けて戦略を立て、「今の仏教」を展開することが大切です。

本書の「檀家という贅沢」という章では、「寺は宗教法人であり、檀家はその法人を構成するメンバーであり、つまりは信者である。その点で、寺は檀家のものである」とありますが、これはその通りで、檀家の方々はお寺を支えてくださる最も大事な「ステークホルダー」です。その意味で、檀家の方は菩提寺に対して「私のお寺」という意識をもっと強く持っていいと思います。

住職と対話して、アイデアがあれば提案してもいいでしょう。コミュニケーションの豊かさが、よいお寺をよりよいお寺へと進化させるでしょう。「心の成長のプラットフォーム」として機能するお寺、人生のコーチとして人に寄り添うお坊さんを、これから私は目指していきたいと思っています。

松本圭介が選んだ3冊:新時代に生きる仏教のあり方を問う