日本の近代文学と温泉の関係は深い。尾崎紅葉の『金色夜叉』では熱海温泉に塩原温泉、夏目漱石の『坊っちゃん』には道後温泉、志賀直哉の『城の崎にて』には城崎温泉、そして川端康成の『伊豆の踊子』には湯ヶ島温泉が登場する。これらを著した文豪たちはもちろん温泉好きで、あちこちに出向いては湯に浸かって疲れを癒やし、当地の食に舌鼓を打った。そして宿に籠(こ)もって執筆も。
小説のみならず紀行文のネタにもなった文豪たちの温泉巡りを辿る。『金色夜叉』と同時期、19世紀末に執筆された徳冨蘆花(とくとみ・ろか)の小説『不如帰(ほととぎす)』の舞台は群馬県伊香保(いかほ)温泉。彼の記念館も立つ馴染みの土地だ。数々の文豪に愛される土地でもあり、1910年代には詩人の萩原朔太郎が、温泉地での侘しい暮らしと瞑想的である紅茶を飲むことは相性がいいと書いている。西洋的な紅茶と古き良き温泉地の対比をしみじみ味わっていたのだ。
20年代には宇野千代が〈伊香保温泉 福一〉へ。朝食に出たフキとワラビの大鉢を馬のように平らげたという。現在でも旬を迎える春先に食べられることも。
宇野が馬のようにむさぼっていた頃、川端は『伊豆の踊子』を執筆していた。ところは伊豆〈湯ヶ島温泉 湯本館〉。本作の着想を得た宿でもある。温泉は山の湯では湯ヶ島が一番と絶賛。界隈の名物はワサビとシイタケで、中でもワサビ漬けの味は最上級だと書き残した。今でもこのワサビ漬けは朝食に並んでいる。宿泊した部屋は当時のまま保存。ここで『伊豆の踊子』の校正をした梶井基次郎などの資料の展示も。
時代は下って戦後。釣り好きでも知られる井伏鱒二は山梨県〈古湯坊 源泉館〉へ。術後療養のために訪れた際に、ヤマメが釣れることを知り通うようになった。今でも宿の主人が「井伏先生」と慕うほどだ。食事はもちろん、お気に入りはお酒。地元の銘酒「富水」はなくなってしまったが、現在はこの地の蔵元〈萬屋醸造店〉の「春鶯囀 純米吟醸 冨嶽」などが飲める。
50年代以降は“文豪の足跡を辿る”文豪が次々と現れる。遠藤周作は尾崎紅葉が『金色夜叉』を起草した栃木県の宿〈清琴楼〉に行き、紅葉が泊まった部屋に宿泊。写真や原稿の複写を見て、刺し身を味わった。
60年代には田辺聖子が兵庫県の城崎温泉へ。小説『城の崎にて』を読み返し、著者・志賀直哉の碑の見物も。名物の松葉ガニを食べ、その足で鳥取の東郷温泉へ。田山花袋や幸田露伴も宿泊した〈湖泉閣 養生館〉を巡る文豪ツアーを1人敢行。
70年代には詩人の草野心平が大分の安心院(あじむ)温泉〈やまさ旅館〉を訪れ、名物スッポンを味わった。旅の目的はこの地に生まれ日本料理の教科書的古典『美味求真』を著した木下謙次郎の足跡を辿ること。甥を訪ねると、謙次郎が贈った詩が残っていた。そこには「書を読みスッポンをさし余年を送る」と。謙次郎とスッポンの縁の深さを知り、一層味わい深く感じたことだろう。
少々事情が違っているのは北杜夫による80年代の山形行。亡き父で歌人の斎藤茂吉の足跡を辿る旅だ。宿泊した銀山温泉〈能登屋旅館〉ではイワナやアワビ、栗に手打ち蕎麦を食べてご満悦。温泉地の奥にあたる洗心峡の茂吉歌碑(冬期閉鎖)にも立ち寄った。
さまざまな温泉が書き残されてきたが、次第に切り口も多様になってくる。例えば、時事的な視点から。70年代に大分は由布院温泉〈亀の井別荘〉を訪れた水上勉は、東京における熱海のように、九州では別府の奥座敷にあたる由布院に憧れる人が増えてきたのだろうと語った。自然溢れるこの地の食材で作る、山菜料理やイノシシの肉の鍋、地酒の味は申し分なし。
80年代に武田百合子が書いたのは、特別な温泉ではなく、身近な日常を綴るエッセイ。東京の浅草寺の近くにあった〈浅草観音温泉〉に立ち寄り、〈大黒屋〉で天丼を食べる。この軽やかさにはなんとも東京らしさがある。
同時期に、いわば“総集編”的な本を書いたのは山口瞳。「これからは温泉の時代です」と編集者にそそのかされて日本各地の20の温泉を巡った。中でも食に大満足したのが島根の〈皆美館〉。宍道湖(しんじこ)すぐ隣の皆美館だから鮮度が違うような気がすると鯛めしをペロリ。なんともバブリーで贅沢だ。