Eat

Eat

食べる

四半世紀を経て、再び銀座に集う。〈銀座 鮨青木〉〈レフ アオキ〉を営む青木家と銀座の物語

東銀座の一画に昨年オープンした〈レフ アオキ〉。フランス語で “LES FRÉRES=きょうだい”を意味する店名の通り、シェフの青木誠さんとサービスを担当する姉の三代子さんが営む小さなフレンチレストランだ。青木家の長男は、言わずとしれた銀座屈指の名店〈銀座 鮨青木〉の親方・青木利勝さん。店の女将である母・豊子さんとともに、仕事終わりにこの店に集まることも少なくないという。青木家の団欒の時間をちょっと覗かせていただいた。

photo: Jun Nakagawa / text: Yoko Fujimori

とにかく、笑顔の絶えない家族である。江戸前鮨の名人と謳われた父である故・青木義(よし)さんの遺志を受け継ぎ、長男の利勝さんは2代目大将として〈銀座 鮨青木〉で華のある握りを振る舞っている。シェフである次男の誠さんは、フロアを切り盛りする長女の三代子さんとともに、シャンゼリゼ通りの裏路地で長くビストロを営んできた。2人は現地の食通たちに愛された店をクローズし、23年にわたるるパリ生活を終えて帰国。新たに東銀座に店を構えたのは、ほかでもない、母・豊子さんを囲んで家族と過ごすためだった。

〈レフ アオキ〉に集合した青木家
〈レフ アオキ〉に集合した青木家。左より、母の豊子さん、長女の三代子さん、長男の利勝さん、次男の誠さん。

青木利勝(以下、利勝。兄)

僕の店が早く終わったときに、ここにちょくちょく寄るんです。料理のことも、火入れの仕方とか分からないことはよく教えてもらってますよ。まーちゃん(次男の誠さん)が東京に帰ってきて店を出す場所を考えているときに、なかなかいい物件がなくてね。もともと父が銀座で店をやっていたこともありますが、「せっかく一流の腕を持っているんだから、一流の場所でやった方がいいよ」と、アドバイスしたんです。で、シェフ、この周りのはキャベツ?

青木誠(以下、誠。弟)

うん、周りはキャベツで、真ん中が香味野菜だね。僕は23年日本を離れていたので、東京の今の事情が全く分からなくて。

青木三代子(以下、三代子。姉)

最初は銀座なんてとても手が届かないだろうからと、大使館がたくさんある麻布十番や広尾の辺りを探していたんです。パリ時代もそういう立地で、いいお客様に恵まれたので。でも全く見つからなくて、最後に東銀座のこの場所に出会えたんです。まさかビルの多い東京でパリと同じように路面店を出せると思っていなかったので嬉しかったです。これもご縁ですね。

利勝(兄)

僕も魚に関してなら協力できるので、準備期間の1年くらいは毎日まーちゃんと豊洲市場に通って、魚のチェックの仕方を教えたり、魚屋さんを紹介したりしていました。このエイヒレ、全然臭みがないね。めちゃくちゃおいしいなあ。

三代子(姉)

母も高齢なので、そろそろ日本に戻って母の近くで店をやりたいと考えていたので、今思うとこの場所でよかったですね。

利勝(兄)

お母さんは今も店の準備をするのが日常なので、秋の季節は松茸の掃除とか、その後はおせちの準備も始まるし、毎日忙しいんです。働いているから元気とも言えるけど、止めてもつい無理しちゃうから。もう83歳だものね。

青木豊子(以下、豊子。母)

ええ、82歳と9カ月ね(笑)。

銀座で培われた食の英才教育

青木家の歴史は、銀座とともにある。名人と謳われた父の義(よし)さんは、銀座の名店〈鮨 なか田〉で20年ほど研鑽を積んだ後、暖簾分けを許されて1972年、京都木屋町に〈なか田〉を開業。その後1986年に東京へ戻り、麹町に〈鮨 青木〉をオープンし、1992年には念願の銀座に移転。子供たちも父の〈鮨 なか田〉時代から銀座は近しい存在であり、何より“食”に触れる場所だった。

利勝(兄)

すずらん通りの「銀座 なか田」に父が勤めていた頃が、僕にとって最初の銀座の記憶。町内会の旅行とか行ったよね、幼稚園の頃かなぁ。京都から東京に戻ってきたのは僕が27歳のときで、父と一緒に店に立ったのが麹町で3年、銀座で1年弱でした。

父はとにかく食べることが大好きで、ソニー通りの裏にある〈エスコフィエ〉というフレンチでビーフシチューを食べたり、焼き鳥好きだったから6丁目の〈鳥茂〉や〈鳥ぎん〉に通ったり、もう閉店してしまった〈やま平〉っていうおでん屋さんにもよく行ったなぁ。

三代子(姉)

父は料理も好きで、休みの日にはローストビーフやタンシチューをよく作ってくれたんです。あと、日曜日は銀座界隈のデパートを全部まわって、新作のお菓子を買って来るんです。最初に〈デメル〉のザッハトルテを食べた時はセンセーショナルだったわよね。

誠(弟)

うん。幼稚園くらいから「カビ食べるか」って言われてブルーチーズ食べさせてもらったり。

三代子(姉)

グレープフルーツにお砂糖と「レミーマルタン」かけて家族で食べたりね。

誠(弟)

あと、日曜になるとなんだか分からないけど生クリーム泡立ててたよね(笑)。

三代子(姉)

そう言えば、父は店をはしごするのが好きで、それを「食の檀家まわり」と呼んでいたんです。

利勝(兄)

そうそう、これは京都の話だけど、まずふぐ食べて、そば屋に行って、その後に〈ニューキョート〉っていうビアホール行って、最後に家の近所の喫茶店でカツサンド食べて帰ってくるっていう(笑)。

誠(弟)

父はお店でお客様からいろいろ教えてもらうと、自分で作ったり、お店に連れていってくれたので、おいしいものが常に身近にあった。今思うとありがたかったですよね。

銀座で店を持つこと、カウンター席の醍醐味

さて、料理が進むとともに、いつしか銀座の常連さん話や、互いの店の共通点であるカウンター席の話題に。食の道へ進んだプロ同士、尽きることなく意見が飛び交う。

〈レフ アオキ〉に集合した青木家
「このスープの泡だてはどうやるの? 裏ごしする?」。さすがシェフ同士、一皿ごとにこんなやりとりが自然に飛び交う。

利勝(兄)

銀座は一等地だから、店を開けばすぐお客さんが来ると思われがちだけど、実はその分、すごく難しい。何年もかけて良くなっていくものが、悪くなるときは一瞬。一流のお客様が集まるからこそ、怖い街ですよ。でも、ネット上であれこれ言うのでなく、目の前できちんと言ってくれるお客さんがいた方が店は育つと思うし、そういうお客さんがいるのが銀座だと思う。うちも先代から厳しいことを言ってくれるお客さんが結構いますよ。勉強になるし、ありがたいよ。

誠(弟)

僕はもう、カウンターに四苦八苦しています。パリ時代はテーブル席だったので、慣れるのが大変。仕事中必死だし、すぐ顔に出ちゃうから。あと、パリの人たちは知らない人同士でも何となく会話をして楽しい空気をつくるのが上手なんだけど、銀座は皆さん緊張していらっしゃるのか、カウンターで誰も喋らず空気が重いときがあって(笑)。もう少しリラックスしてもらっていいのにな、と思います。

三代子(姉)

そうね。お客様の速度やタイミングを見てすぐお出しできるところがカウンターの醍醐味だけど、パリの接客と日本で求められるサービスが全て同じではないから、サーブの仕方もその辺りが難しいかも。

誠(弟)

お兄さんはこれをふつうにやってるからすごいよね。

利勝(兄)

まあ、長年のことだから。カウンターはお客さんの反応が一瞬で分かるライブ感がいい。でも、さすがにハモの骨切りの最中に話しかけられるのは困るけど(笑)。それで、お母さん、どうでしたか今日の料理は。

豊子(母)

おいしかったですよ。ウニのスープとエゾ鹿が好きでした。

三代子(姉)

良かった。お母さん、お肉大好きだものね。

誠(弟)

四半世紀パリで過ごして、また銀座でこうして集まれるのはやっぱり嬉しいよね。このために帰ってきたから。

豊子(母)

ほんとね。誠が小学4年生の時に「ローストビーフってどう作るの、僕焼いてみたい」って言ったの、よく覚えてますよ。それが料理をした最初。あれからずっと続いているのね。