好きで好きでたまらない洋食を突き詰め、高める
待ちに待ったグラタンがやってきた。器の側面には、噴きこぼれたソースがたらたらり。ふーふーしないとヤケドすること間違いなし。「噴きこぼれないとグラタンじゃない」と、〈洋食 KUCHIBUE〉店主・坂田阿希子さんが断言する。
この店で初めてグラタンを食べたとき、スプーンを手に持ったら、坂田さんが飛んで来て(というのはオーバーだけど)、「ごめんなさい、グラタンはフォークで召し上がっていただきたいんです」と遠慮がちに言われた。スプーンでガサッとすくうと、個々の食材のこまやかな味わいがわからなくなる。
できれば、フォークで具材を探し当て、その触感や食感、味わいの違いを感じながら食べてほしいと。確かに、フォークだとざくざくのゆで卵の白身や大ぶりの鶏肉、マカロニや玉ねぎをしっかりと感じ取れる。“おいしい”の感じ方が全然違った。
この店、代官山ヒルサイドテラスの一角、かつて〈トムスサンドウィッチ〉があった場所に2019年に誕生した洋食店である。フランス料理を学び、フランスでの研修経験もある料理家がなぜ洋食店を?
「わが家は両親ともに洋食好きで、外食も含めて1年の4分の1は洋食という家だったんです」。店を開く数年前から、なぜか洋食を作ってほしいという仕事が増えた。仕事を通し、洋食にきっちりと向き合った。2014年には『洋食教本』という本まで上梓した。
洋食って、どこにでもある材料の組み合わせなのに、手をかければかけるほどすごくおいしくなる。小さい頃から大好きで、慣れ親しんできたけれど、突き詰めるほどにどんどんおもしろくなる。「洋食の魅力にすっかりとりつかれてしまったんです」
グラタンの玉ねぎと鶏肉は一緒に炒めず、1種類ずつきっちりと火を通す、ブイヨンは丁寧にとる、マヨネーズはもちろん手作り、フレンチドレッシングはねかせて味を凝縮させる、などなど。至るところにフレンチの理論と技術が生かされている。
「ナポリタンのケチャップはハインツでももちろん最高なんだけど、この店ではバカみたいに時間をかけて手作りしています。レストランだからこそできることをしたいんです。洋食は人気なのに新たにやろうという人は少ない。なぜなら、ものすごく手間と時間がかかるからなんです。新参者が手を出すべきことではないのかもしれない。でも、だからこそ挑戦する価値があると思いました」
すべてを削ぎ落としたギャラリーのような雰囲気の中で、洗練された洋食を出したい。それがこの店を開くときのコンセプトだった。まったく迷いはなかった。
〈KUCHIBUE〉のメニューは、かなり絞り込んだものである。少数精鋭といっていいラインナップ。グラタンは母の味を再現したもの、コンビネーションサラダは子どもの頃に通った地元の洋食店の味が忘れられなくて、店はもうなかったのだが、勤めていた人を探し出して作り方を聞き、再現したものと、思い出の味もギュッと詰まっている。
中には、時折登場する「大人のお子様ランチ」というメニューもある。サラダもスープも海老フライもハンバーグもグラタンも入った、夢のわんぱくコースだ。ちょっと馴染みのないものもある。「ミロトン」だ。坂田さんがフランス研修時代に習い覚えたもので、ブイヨンをとったあとのカスカスの肉をおいしく食べるための、古くからある賄い料理だという。
「野菜と一緒に煮込んだものなんだけど、ハヤシライスと味が似てるなと思って。これにはニンジンご飯が合う。カレーもそうだけど、ご飯にかかっているのって好き。ご飯の一粒一粒にフォークでソースをからませながら食べてほしい」
場所柄、昼間は若い人たちが多いのだが、夜は近くに住むベテランの食べ手たちも多い。ワイン片手にゆっくりといい時間を過ごせる。
味の追求を止めず、ひたすらブラッシュアップし続けてきた。洋食というありふれた姿を借りながら、展開されるのは極限までシンプルに見せながら調味料から調理工程、食され方にまでこだわる、ハイエンドな味の世界である。これはもう新しいジャンルといっていいのではないか。進化し続ける坂田洋食の世界。前進と“深化”が止まらない。