“書くこと”の誠実さ、あるいは文体的な嘘について
阿部大樹
嘘をつかないように、不器用と言われても筋を通そうとしているのが枡野さんだと思うんですよね。ラジオと、これまでのエッセイ集を読んでいての印象です。「空から降って湧いてきた」みたいなテイで文章を書く人もいるじゃないですか。でも実際はそんなことはめったになくて、締め切りがいつだとか文字数は何文字だとか、そういう外側の制約があって初めて活字になっているはずです。雑誌とか文芸誌であればなおさら。その部分を包み隠して書くのはフェアじゃないと僕は思っていて、枡野さんにも近いものを感じていました。
枡野浩一
そういうことが気になるタイプなんだと思います。最初のエッセイ集『君の鳥は歌を歌える』は単行本化の際に各エッセイに脚注を付けて、文庫化したときもその脚注に脚注を付け加えました。今思うとおかしいんだけど、そうせざるを得なかったんですよね。なぜ書いたかという動機みたいなものを、アリバイ的に書いてしまうのかもしれない。
阿部
前提とか経緯のところを抜きにして書いた方が立派に見えたり、芸術的に見えると思うんですよね。権威づけしやすいだろうし。少し近い話で、「〇〇(誰でも知っている大きな事件)のことを考えると、××(書き手にとっての極私的な事柄)を思い出す」みたいな随筆の書き出しがよくあるけど、それって本当に思い出してるのかなって気になるんですよね。
これ嘘偽りなく真実なのかなって。表現のテクニックだって言えばテクニックなんでしょうけど、嘘っちゃ嘘ですよね。僕はそういうのを「文体的な嘘」って呼んでるんですけど、空から降ってきたテイで書かれた文章もその一種だろうなって感じます。
技巧か「文体的な嘘」か
枡野
思い出すためのきっかけが捏造されることってありますよね。村上春樹さんはオウム事件のことを書くことにしたきっかけとして、たまたま読んだ雑誌の話を書いたけど、その雑誌は実在しないと久居つばきさんが指摘しています。春樹さんの場合は意図的だと思うんですけど、書き手がわりと無自覚にやっちゃうことってあるかもしれませんね。
阿部
レトリックだと言われれば否定はできないし、自由にすればいいと思うんだけど……。でもエッセイと小説の違いを考えたとき、エッセイは「著者が考えたことを文にしている」っていう暗黙の前提があるわけですよね。「文体的な嘘」は、それにフリーライドしていると思う。
枡野
阿部さんとしゃべり方が似ている穂村弘さんはエッセイの中で、西荻窪を「花荻窪」と書くんです。で、僕はずっとそれが許せなくて。そんな土地ないし、と思ってしまうんです。ちょっと嘘ついてるんですよ、というポーズだというのはわかるんですけども、どうしても「エッセイなのに」って。
阿部
枡野さんは内容ごとの表現形式の必然性を考えますか?この内容だったら、エッセイで書くべきだなとか。
枡野
考えますね。自分もですが、他人の短歌に対しても。わざわざ短歌にしないでエッセイに書いた方がより伝わるのに、と思ったり。
阿部
僕も最近は、特に短編小説を読んでいて、この主題だったら小説でなくてエッセイにしてほしかったなと思うことが増えました。
枡野
ありますよね。エッセイの必然性の話で言うと、小説にならないように書きたいと強調して書かれた赤瀬川原平さんの文章を思い出しました。実際に起こった出来事を書いているんだけど、ものすごい偶然だから、小説だったら陳腐な作り話になってしまう、と。
起承転結は嘘くさい?
阿部
何年か前、枡野さんの『本と雑談ラジオ』を聴いていたとき、どうにも落としどころのない話をしばらく続けた後に「結論の出ない話ですね、これは」とおっしゃったことに新鮮な驚きがありました。白でも黒でもないことを、無理に白黒つけることをやってしまいがちだし、あるいは言及しないという方法もあるなかで、はっきり「白も黒もつかないですね」と言ってしまっていいんだなって。青い鳥を家で見つけたような発見でした。
昨年、これまでの自分の文章をまとめて『Forget it Not』という本を出したんですけど、後半の文章はどれもあのラジオを聴いた後のもので、読み返すと影響されているのがよくわかります。文章で食べている人ほどまとまらない話を避ける傾向がありませんか。枡野さんの書き物には、「っぽい結論」に流れないことの意志を感じます。
枡野
なるほど。でも正直言うと、あまり頭が良くないからというのもあって(笑)。内心では、結論を出せるなら出したいと思っているんですけど、わからないことは「わからない」と言うようにして生きてきたから、自ずとそうなっているのかもしれませんね。
でも、文章に関してはよく言われます。起承転結とかヤマを嘘だと思っているところがあって、「え、これでおしまい?」というような書き方をしてしまう。自分はそういう文章の方が安心できる。というか、起承転結がはっきりしたものは嘘くさいと思っちゃうところがあるのかもしれないですね。
定型から出る「まこと」
枡野
精神科医が本を書くときにどう見ても本名じゃないペンネームを使う場合ってわりとありますよね。香山リカさんとか、星野概念さんとか。精神科医でありながら、エッセイ集や翻訳書も同じ名前で出している阿部さんみたいな人は珍しい。エッセイを書く人はエッセイストの人格を作って書くから、本業の論文はないことにしているところがあると思うんです。だからこそエッセイと論文が同列に載っている『Forget it Not』は本物感がすごい。こういう仕事をされているからこう考えたんだ、という説得力を感じました。
阿部
枡野さんは『かんたん短歌の作り方』で「〈面白いことを書く〉から面白いのではない、〈面白く書く〉から面白いのです」と書いていましたけど、今もそう思いますか?
枡野
嘘をついてでも面白く書こう、と書いたんですよね。だけど、全短歌集を最近出して、自分の短歌をよく読み返してみたら、呆れるくらいのノンフィクション度でしたね。どの短歌も「実際にこういうことがあったんです」と言えるんですよ。
阿部
定型詩には文字数の決まりがあるじゃないですか。手癖というか慣れた語彙とか文法とかリズムだけで文章を書いていくことの気楽さもあるんだけど、それだとどこかで飽きちゃうんですよね。でも禁則とかルールをあえて設定するのも胡散くさいし。実験小説ならともかく。短歌はノンフィクションだと枡野さんが言うとき、それは日記みたいに書くということですか?
枡野
僕の場合、繰り返し経験したことやわだかまりになったものが短歌になるので、書くというよりも勝手に出てくる感覚です。嫌なことがあると首のあたりにたまって、ずっとたまってたものが短歌になる。生きてたら自然に出てきてしまったようなものですね。操作して書いた短歌は腐るというか残らないんです。