記号や情報の消費ではない、「潤沢」な生活とは。
経済をスケールダウンさせ、「脱成長」に向かう、といわれると、競争がなくなり、イノベーションが生まれなくなると考えるかもしれません。現代社会の課題を解決するにはむしろ、より資本主義的な競争を高め、テクノロジーの発展を加速させ、環境破壊を食い止める発明を作り出す方がいいのだ、と。
デヴィッド・グレーバー『官僚制のユートピア』は、こうした資本主義への期待を否定しています。かつて資本主義は自動車や白物家電など多くの発明をもたらしましたが、実はこの30年でほとんどイノベーションは起きておらず、むしろ民間企業にまで官僚制が行き渡り効率も下がっている、と彼は語っています。
近年でいえば、たしかにインターネットやiPhoneは発明かもしれませんが、前者はもともと軍事用に国家が開発したものですし、後者は一見革新的に見えますが、実態としてはテレビや電話を小型化したものにすぎない。現代の資本主義はイノベーションを加速させるどころか、阻害してしまっているのではないでしょうか。
学問の歴史を見ればわかるように、互いに知識を広くシェアすることで、自由で大胆な発想が生まれパラダイムシフトが起きるのですが、資本主義により社会が官僚化すると、企業は知識や富を独占し、組織は縦割り型になり短期的な成果ばかりを求めるようになる。
目先の利益だけを追っていたら、小手先の取り組みしかできなくなります。企業は環境を犠牲にして短期的な利益を優先させがちですが、スローダウンして物事をもっと長期的な視点から捉えてみる。それが、驚くようなイノベーションを生み出す可能性を秘めているのです。
そもそも、私たちが今享受している生活は本当に豊かなのでしょうか。例えばメディアやSNSで知った話題のレストランに行くことは、おいしいものをいただく幸福感よりも、お店のブランドやイメージを消費する快楽の方が大きなウエイトを占めているのではありませんか。
ファッションやエンタメでも、私たちはもはや記号やイメージを消費し続けているだけであって、そのものの本質を体験しづらくなっている。大量生産と消費、いつまでも満足できない、終わりのないループに陥っているのです。國分功一郎『暇と退屈の倫理学』はこうした現代社会の消費主義を批判しながら、「贅沢」という概念を再提示しています。
「贅沢」とは、記号ではなくモノそのものを咀嚼しながら楽しむこと。性急に飲食店のイメージを消費するのではなく、目の前の食事を腹十二分になるまで楽しむことでこそ満足が生まれる。この種の満足を得るためには、訓練や教養が必要なので、消費をスローダウンさせる必要があります。この意味での脱成長とは決して貧しくなることではなくて、目の前にある豊かさを味わう力を取り戻すことでもある。
新型コロナウイルスによって強制的なスローダウンが起きたことで、今までの生活の過剰さに気づいた人も多いと思います。それは資本主義に踊らされていたことに気づくことでもある。毎日飲み会を開いてお金を使って、翌日二日酔いの体を酷使しながら働く生活が、本当に幸せなのか、ということです。
脱成長時代の豊かさを考えるうえで、マルクスの思想は示唆に富んでいます。例えば、マイク・デイヴィス『マルクス 古き神々と新しき謎』では、公的なものの豊かさを取り戻さないといけないと書かれている。
現代の資本主義は富裕層のコミュニティに富が集中していますが、本来は〈コモン〉といわれる民主的な公共空間を広げることに世界の富を投資した方が多くの人が豊かになれる。公園や図書館といった公的領域は資本主義の論理と関係のない空間であり、ビジネス的な「コストとリターン」にとらわれずに、自由なアイデアを出せる空間のはず。
デイヴィスも格差が急速に拡大していく「人新世」の世界を憂慮する一方で、〈コモン〉を通じた想像力の解放に期待しています。都市の生活は華やかですが、競争によるストレスを抱えて人々は孤立し、喜びを分かち合えていない。〈コモン〉やシェアを通じた自治を取り戻し、新しい社会をみんなで創っていくことが重要です。