解説者:北村匡平(映画研究者)
物語の意味を豊かにする、台詞に頼らない映像&音響演出
優れた映画作家は、あるシーンで起こっている出来事の意味を、台詞ではなく、映像や音響のみで語ることができます。マーティン・スコセッシは、そのような演出に長けた監督の一人。まずは『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』を観てみましょう。
マーティン・スコセッシ『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』
本作は、1870年代の上流社会を舞台に、弁護士のニューランドが、婚約者がいるにもかかわらず、幼馴染みのエレンと恋に落ちるという話なのですが、注目したいのは2人が急接近することになるシーン。最初、部屋に入ってきたエレンとニューランドは膝上くらいから撮られ、やや距離感があります。しかし、エレンが上着を脱ぐ動作の途中、アクションつなぎでカットが切り替わります。
アクションつなぎとは、動作の途中でカットを変え、続きを別のアングルで映す技法ですが、このシーンでは続くカットで2人がバストアップで映され、一気に近づいたような印象になる。時間的には連続しているのに、2人の距離が一瞬で近づくので、撮影時の立ち位置は大きく変わっています。だから、嘘なんですが、アクションつなぎを巧みに用いることで、自然に見せているわけです。
その後のシーンも秀逸です。いろいろと語り合う2人の姿を、まずはニューランドとエレンを1人ずつ正面からの切り返しでつないでいきます。しかし、会話が進んでいくと、カメラがそれぞれの背中越しに移動し、2人を縦に捉えて切り返す。
これによって、2人の画面上での距離がさらに近づき、まるで隣り合っているかのように見える。このように言葉に頼らずに、2人の関係性の変化を画だけで語るわけです。サイレント映画的とも言えるこうした演出が、スコセッシは本当にうまい監督です。
ピュリツァー賞を受賞したイーディス・ウォートンの同名小説の映画化。1870年代を舞台に、婚約者と幼馴染みの女性の間で揺れる、弁護士ニューランドの懊悩を描く。'93米/監督:マーティン・スコセッシ。
スコセッシではもう一作、『ディパーテッド』も観てみましょう。主人公は、マフィアに潜入した警察官のビリーと、マフィアと内通している警察官のコリンです。
冒頭では、マフィアのボスであるコステロと幼少期のコリンの出会いが描かれるのですが、このときコステロの顔にはずっと影が落ちていて表情が見えません。ほかの登場人物は顔がはっきり見えているにもかかわらずです。
つまり、このようなライティングにすることで、コステロの残忍な人間性を浮き彫りにしているわけです。その後はコステロがコリンに語りかけるシーンが続き、その声だけ残して、青年になったコリンの姿へとつながれています。これは年月を経ても、コリンがコステロの支配下にあることを伝える、非常に効果的な音響の演出です。
北野武『アウトレイジ』
日本において、こうした言葉に頼らない演出がうまいのが北野武です。例えば、ヤクザ組織が集まる会食を描く『アウトレイジ』の冒頭場面。最初は屋外にいるヤクザたちが横移動で捉えられます。その中に、ビートたけし演じる主人公の大友もいるのですが、アップにされないどころか、フォーカスも合っておらず、その他大勢の群衆の一人として撮られる。
その後、カメラは建物内に入り、國村隼演じる池元たちを横から捉えた後、また部屋が変わり、会長である関内(演じているのは北村総一朗です)を映すのですが、このとき関内を消失点とした一点透視図法のような構図が用いられるのです。
ほぼ台詞がない場面ですが、構図だけで組織内のヒエラルキーを語り切ってしまうのが素晴らしい。実際、説明がなくとも大友たちが下っ端で、池元たちが中堅で、関内が頂点に君臨しているとすぐにわかるわけです。
『アウトレイジ』のラスト近くでは、音響に関しても秀逸な演出があります。三浦友和演じる加藤がパチンコ屋で遊んでいると、大友が隣の席にすっと現れると同時に、背景音が消える。そしてナイフを取り出して、加藤の腹に突き刺すのですが、カメラは腹を映さず、ブスッブスッという音だけで、どれだけ凄惨な場面かを表現してしまうのです。
関東一円を取り仕切る巨大暴力団組織・山王会の思惑により、配下たちが血で血を洗う争いを繰り広げる。続編として『アウトレイジ ビヨンド』『アウトレイジ 最終章』が製作された。'10日/監督:北野武。
凄惨な場面で、何が起きているかを観客の想像力に委ねるという演出は、『ソナチネ』でも確認できます。ビートたけし演じるヤクザの組長・村川が、裏切られた上部組織に復讐するラスト近くのシーンがそれ。上部組織の構成員がいるホテルを停電させてから襲撃するのですが、銃撃戦を直接は描かず、乱射されるマシンガンの光の明滅だけで描いてしまうのです。
『アウトレイジ』も『ソナチネ』も、前半から中盤にかけての暴力シーンは、むしろ傷口や血しぶきをどんどん見せ、グロテスクに描いています。これは“残酷時代劇”と呼ばれた黒澤明の『用心棒』『椿三十郎』の影響だと思われますが、ラストではその影響を乗り越えるかのように傷口を見せません。このバランス感覚が素晴らしいです。
また『ソナチネ』の序盤には、村川を含む組織の構成員たちが、上部組織の組長をキャバクラのような店で囲むシーンが登場します。このとき、村川はたばこを吸っているのですが、ほかの構成員たちはフルーツを食べている組長をじっと見守っている。
しばらくして組長が「たばこ吸っていいぞ」と口にすると、みんな一斉にたばこを吸い始めるというオチなんですが、ここでも村川が組織内でアウトサイダーであることを、画のみで表現していて、非常に短い描写ですがうまいなと思います。いずれにしても、北野武は現役の日本人監督で一番才能がある人だと個人的に思います。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ『21g』
最後に触れたいのが、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥです。彼もまた画やカメラワークだけで語るのがうまい監督です。例えば、『21g』。夫と2人の子供を同時に失ったクリスティーナ、彼女の夫の臓器提供により命を救われたポール、彼女の家族の死の原因である交通事故を起こしたジャックという3人の物語を交差的に描いた作品です。
ポールは臓器提供者が誰なのか調べる中でクリスティーナと出会い、恋愛関係になっていくのですが、まず注目したいのは2人がセックスした後の場面。彼女は一瞬結婚指輪に触れた後、クローゼットの中の夫のネクタイに視線を送り、次に横に寝ている裸のポールを見る。かつては夫がいた場所が、今はポールに専有されていることを画だけで語るわけです。
そのしばらく後、夫が死ぬ間際に残した留守電を、クリスティーナがベッド上で聴きながら泣くシーンがあり、そのとき隣のスペースには誰もいません。この2つのシーンは同じアングルから撮られているのですが、そうやってベッドという同じ空間を繰り返し描くことで、夫の不在感を際立てるという演出になっています。
また、イニャリトゥは登場人物たちの感情が高ぶるシーンにおいて、手ブレも辞さないカメラワークでドキュメンタリー的な効果をよく狙うのですが、『21g』でそれがよくわかるのが、ジャックにまつわる場面です。彼は信仰に篤いキャラクターという設定なのですが、交通事故を起こしたことで、それが揺らいでしまいます。
刑務所に入った彼は、牧師と対話する中で、いよいよ神への不信感を表明するのですが、そのときにまるで転調したかのようにカメラワークが変わるのです。映画には向かい合う2人の人物たちを想像上の線(イマジナリーライン)で結び、撮影する場合はその線を越えないという暗黙のルールがあります。越えてしまうと、誰がどちらを向いて誰と目線を合わせているかわからなくなってしまうからです。
しかし、このシーンではそれを越え、いろんな位置から撮ったジャックを細かくつないでしまう。あえてルールを無視することによって、ジャックの錯乱ぶりを表現しているわけです。このカメラワークによるスタイルの劇的な転調は、『レヴェナント:蘇えりし者』のラストでも体感できるのでぜひ観てみてください。
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以上のような演出が作り出す意味には、物語の流れに集中している1度目の観賞では気づけないところが多いかもしれません。しかし、2度目以降に関しては、カメラワークや音響効果に着目してみると、既に頭に入っている物語が、より深く楽しめるんじゃないでしょうか。