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ブルータス創刊者・木滑良久が語る、東京と僕。「飯倉にある海軍クラブのプールを、ずっと眺めていた」

東京生まれだけでなく、地方から出てくる人にとっても、東京は特別な街となり、それぞれが抱いている原風景がある。ブルータスの創刊者・木滑良久を筆頭に東京を体現する男性たちに数珠つなぎで話を聞きに行ってみた。

Illustration: Shuichi Hayashida / Text: Kosuke Ide

飯倉にある海軍クラブのプールを
ずっと眺めていた。

「木滑」って苗字は山形県の方の名前らしいですね。米沢藩の家老で木滑という有名な人がいると、歴史小説家の人が教えてくれました。だから東京人なんて言っても、何代かルーツを遡ったら大抵は地方出身なんですよ。全国から人が集まり続けてきたのが東京の歴史だから。

僕は1930年の生まれで、子供の頃は中野に住んでました。親父は教育者で、ちょうど戦争が始まるくらいの頃だったから、「工業学校に行け」と僕に強烈に勧めるんです。それで喧嘩になりましたね。そのまま陸軍に入りたくなかったんで、僕は「絶対、海軍だ」と。

海軍はエリートでかっこいいからね。当時、東京タワーのすぐ近く、飯倉の交差点あたりに〈水交社〉という海軍の社交クラブがあったんです。夏の時期にその前を通ると、入口の門が開いていて、中のプールが見えるんですよ。そのプールで、恰幅のいい若い男たちが泳いでる。その様子を、いいなあと思ってずっと眺めていました。

海軍の社交クラブ〈水交社〉建物イラスト

終戦日の玉音放送も聴きました。ラジオからの声が途絶えて何言ってんだかよくわからないけど、ああ負けたんだあって。終戦直後、今の〈新宿アルタ〉の場所にあった〈二幸〉という食料品店の前を、立川方面へ進駐してくる米軍の隊列を目撃しました。15歳の頃です。

新宿はまだ闇市ばかりで、遊ぶところなんて何もなかった。歩いている進駐軍の兵士たちの制服や革靴がもうピカピカで、かっこよくて、圧倒された。これじゃ負けるよな、と思いました。

立教大学に入ってからは、学校帰りに目白の駅前にあった〈白鳥座〉という映画館によく行ってたな。〈平凡出版(現マガジンハウス)〉で働きだしてから荻窪あたりに住んだりしたけど、息子も立教だったから目白に引っ越すことになって、それから今までずっと住んでいます。

1964年の東京オリンピックはよく覚えてますよ。開催の前から高速道路はできるわ、新幹線はできるわで、見ているだけでワクワクしたね。この年に『平凡パンチ』が創刊したんで、僕は記者の腕章を着けてオリンピック会場に出入りしてました。閉会式が最高でしたね。感動して泣いている観客がいっぱいいましたよ。

東京人ということで言えば、マガジンハウスの創業者の一人、清水達夫さんは深川の生まれで、親父さんが日本橋のカツオ節問屋の大番頭という完璧な江戸っ子でした。とんかつ好きで、ぶっきらぼうな東京弁でね。

奥様の多喜さんは横須賀出身で、お洒落な人。いつも洋装で、ひっつめ頭にハンチング帽なんかかぶって。高円寺では有名な奥様でした。2人の友人でイラストレーターの堀内誠一さんも本所の下町出身。彼らと70年に『anan』を創刊する時、クリエイターが集まる拠点を作ろうということで、六本木の鳥居坂の上に編集部を構えました。

今、90歳になるけど、ずっと東京で暮らしてきて、改めて東京をどう思うかと言われても、わかんないね。でも最初に言ったように、とにかく狭い国土の中に山も川も海も、自然も街もあって、バラエティのある日本はすごくユニークな国で、その全国から人が集まってきてるわけだから。

これだけの「雑血都市」は、世界中でもなかなかないと思いますよ。