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死んでる?死んでない?精神科医・春日武彦が選ぶ、生と死の境目を考える小説7選

「自分が死んだことに気がつかない」という物語の一つの型に着目して、危険な本を薦めてくれたのは、ミステリー好きの精神科医・春日武彦さん。ミステリー、ホラー、暗黒小説、日本文学、落語由来のエンタメ小説まで、国も年代も様々に7冊をセレクト。

初出:BRUTUS No.861危険な読書』(2017年1215日発売)

photo: Shin-ichi Yokoyama / text: Hikari Torisawa

生と死の境目は、死者にも見えないのかもしれない

「生と死。真逆のもののように捉えられがちだけど、実はこの2つって、そこまではっきり分かれていないと思うんです。私は仕事柄、患者を看取ることもあるけれど、死んだ瞬間ってはっきりはわからない。次の呼吸が来ないな、と後追いで判断したりする。今や生命維持装置をつけて死の瞬間を先延ばしにすることもできるから、そのボーダーは余計に曖昧になっていっています。

映画だったら心電図がピ──ッてフラットになるじゃない?あれも実はそんなことなくて、ちょっと触ったらピピッて動いちゃうしね。一方でゾンビのような、死んでいるんだか、生きているんだかわからないものもあれば、昔は昔で蘇りのイメージもあったし、死というものが何なのかよくわからない。でもおっかないからいろいろ考える。その結果、実は生きてましたとか、死んでましたとか、転生輪廻なんかがバリエーションとして出てきたのではないかと思うんです。

さらに、時々「俺は殺された」と一人称のまま書いてしまう書き手までいて、じゃあそれを書いているのは誰なの?ということになる。そんなふうに、書き手の技術の未熟さによって、小説の中でも生死が曖昧になっていく。それでいよいよ、生と死は、どうやらはっきりと分かれているものではないらしいぞ、と思うようになりました」

死んだことに気づかない英国&米国文学作品

民話の時代から語られ続けてきた、「死んでいることに気づかない」人たちの話から、春日さんがお薦めするのは7つの小説だ。

「ガイ・カリンフォード『死後』は、ミステリー作家が殺され、幽霊になって犯人を捜す“幽霊探偵もの”。赤川次郎もこの型を使って書いているけど、こちらは原書が発表されたのが1953年。この作品が秀逸なのは、死後に見える風景について、“現世の掛引のない美しさに強い愛情が湧いて、私は思わず足を停め、一箇のオレンジを掌に握りしめてみた。それはひんやりと冷たく、固く私の触感を刺㦸した。オレンジは、びつくりするほど引締まつていた”なんてことが書いてある。このリアリティがすごい!おそらくは、単なる目新しさだけで幽霊探偵という形をとったのだろうけど、この設定に説得力を持たせるには、どうしたってディテールが重要になる。当たり前の日常の当たり前の景色が、死者の目から見るとほんの少しだけ違って見える。

そういう部分をいかに書けているか?ということに興味があって、文章のテクニックを楽しむために読んでいる部分もあります。60年以上前の小説だから、ストーリーそのものには古さを感じることがあったとしても、部分やディテールの描写のうまさはいつまでも楽しめるんです」

『ピンチャー・マーティン』は、ノーベル文学賞作家による長編作品。

「まぁ、ゴールディングだからね。戦争中に船が沈んで海に投げ出された海軍士官が、突き出た岩に辿り着き、“おれは生きるのだ!”“おれが死ぬことなんか、天が裂けたって、あるもんか!”と大騒ぎ。でも実はとっくに死んでいたというお話です。途中で記憶が混ざり込んできたりもして読みにくいし、絶対もっと面白く書けるはずなのに!とストレスを感じながら読んで、添削したくなったくらいです(笑)。

でもこれ、代表作『蠅の王』のラストのあっけなさと同じで、最後に“実は死んでました”のちゃぶ台返しをやりたかっただけじゃないかしら。一発のアイデアでこの長さを書き切った、というところは認めたいね。努力賞といったところでしょうか」

続いて、山岸凉子のホラー漫画『汐の声』にも共通する構造を持つという掌編小説。ジム・トンプスンの作品だ。

「夫殺しを企んだ妻が、アリバイのために自分のこともぶん殴れとボーイフレンドに頼んだら、殴られて死んじまうという『永遠にふたりで』。妻だけは、うまくやったと思って喜んでいるんだけど、気づいてみれば、死後の世界でも、我慢ならない夫とそれに腹を立てる自分が永遠にくるくるくるくる(笑)。

ホラーの定型に、いかにもトンプスンらしい、しょぼくさーい、しょうがないやつばかりが出てきて、なんとも言えない味わいがあります。いやぁ、こんな目には遭いたくないね。トンプスンが書くものには、暗黒感と、そこまで書くの⁉という驚きが同居していてたまらない。僕が一番好きな『残酷な夜』なら、主人公が異様に背が低かったりして、そこから微妙にチューニングがずれていくの。必然性のない描写、過剰な部分を入れずにいられないところに、またグッときてしまいます。

『この世界、そして花火』っていうのは表題作の中編小説のタイトルだけど、トンプスンはタイトルもかっこよくて、鬱屈したところを抱えている男性には特にお薦めです。好きな作家でいうと、パトリック・マグラアもいい書き手。

ただ、今回挙げた『悪臭』に関して言えば、内容的に整合性が取れているかどうか怪しいところもあって、彼にしてはそこまで出来のいい作品ではありません」とはいえ小説というものは、整合性が第一ではなく、勢いやアイデアが魅力的であればそのまま突っ走ってゆけるメディアでもある。

「この短編は、タイトルの通り部屋から嫌な臭いがして、どんどんそれが強くなって臭いな〜臭いな〜と思っていたら、なんだ俺の死体かよ、というお話。臭いのもとを探して暖炉の煙突を探索に行ったら、そのままはまって死んでしまうというひどい話なんですが、自分の死体の腐った臭いまで書いてしまおうという、気色の悪い気合がいい。臭いというのは喚起力が強いし、特に腐った臭いなんてインパクトがあるじゃないですか。それと暖炉との組み合わせは、日本人には書けないですよね。

この作家の魅力は、なんといってもその悪趣味さ。とにかく嫌なものをいっぱい書く人です。この短編集なら、核シェルターに籠もった父親と息子が、母親の死体を解体して食って、“びっくりするくらいうまかったな”なんて言い合う『長靴の物語』もいい。確信犯的に演出する悪趣味と、ついつい地が出ちゃったようなところもあって、そりゃやっぱり地の部分を覗くのが面白いんですよ」

死に近づいていく文学と、死を読み解く落語小説集

『火垂るの墓』で知られる野坂昭如は、『飢え死』と題した短編も遺していた。

「舞台は現代で、主人公が飢え死にを目論むわけ。普通に社会生活を送りながらだから難しいんだけど、家族にもわからないように、どんどん食い物を減らしてね。飢えながらだんだん気持ちよくなっていき、腹減って衰弱していくと、それこそ、生きてるんだか死んでるんだかわからなくなっていく。

野坂昭如だから、戦中戦後の体験も重ねながらあれこれ回想して、最後は“私は、やはり、とっくの昔に、死んでいるのかもしれぬ”と終わる。拒食症の人って、ものを食わないとハイになっていくんです。それこそ脳からエンドルフィンが出ているのかな。衰弱して動けなくなる状態に至るまでは、ものすごく元気なんです。

ただ一方的に死に向かって下がっていくわけではなく、間に多幸感があったりするもんだから、生と死ってますますわけがわからない。でも、現代日本で餓死って相当なインパクトがあるし、しようと思ってもなかなかできることじゃない。そこを敢えて題材にとったのは、作家としてのクレバーさであり、同時に、この繁栄の時代まで生き残ってしまった、という作家の苦々しい思いも入ってくる。『死小説』としていろんな死に方や人を殺す話がある中に、餓死を入れるのが野坂昭如らしい。絶版になっているのが惜しい本です」

古典落語を、ミステリーの視点から解き明かす現代小説も面白い。『粗忽長屋』を小説化した『からくり砂絵』と、こちらも『粗忽長屋』に『粗忽の死者』を掛け合わせた、『粗忽長屋の殺人』の2作品だ。

「どちらもミステリー仕立てで、落語を論理的に再構築してみせたのがお見事です。『粗忽長屋の殺人』の方は、“俺は誰なのか?”というオチで、少なくとも2つのミステリー的解釈ができるという作り。落語には、死んだあとの話、死を弄ぶような話が割と多いなか、私は、この『粗忽長屋』という演目がことさら好きというわけではないんだけどね。

ミステリー作家だったら、そこに論理的解決をつけたくなってしまう、というのはよくわかる気がします。2作品とも、小説の舞台が現代ではなく江戸時代だから通用する、というポイントを使って解決に導いていく。うまい。

当時は鏡なんて普及していないから、自分の顔をきちっと見たことあるやつはいない、とかね。死んでることにした方が安全だから、とりあえずそうしとこう、って事件を一時避難みたいに利用したりする。落語の小説化というのは実は結構数があって、特にミステリーとは相性がいいんじゃないかしら。もともとの落語自体、矛盾してる点や曖昧な点も少なくない。そこをどう解釈して、どう演じるかは演者が作っていく部分なので、その余白に、ミステリーとの近似性があるんだと思います。

この『からくり砂絵』を書いた都筑道夫は、もともと早川書房で『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』編集長を務めたり、後の『ハヤカワSFシリーズ』になる『ハヤカワ・ファンタジー』を立ち上げたり、編集者としても活躍した。物知りで器用で兄貴が落語家。コアなファンがいる作家です」

世にあまたある「怖い本」や「気持ち悪い本」。人はなぜ、危険な本に惹かれるのだろうか。

「私の場合で言えば、生理的に嫌な感じの本なんかを敢えて書く作家に対しては、どれだけの必然性を感じさせてくれるのか、お手並み拝見、という気持ち。体を解体されても全然怖くないの。じゃあ何が怖いかと言えば、例えば警察官の主人公がクビになったりして、年金がもらえないんじゃないか、老後の暮らしは、なんて卑近なところで不安になってしまう。下世話なくらいの不安に結びついてしまう、そんな話はなるべく読みたくないです」

精神科医・春日武彦
郊外の街に取り残された、薄暗〜い廃病院のレントゲン室の扉がギギギと開いて、中から出てきた白衣の男。その正体は……春日武彦先生でした。