人々の営みの跡を辿りたい
煌びやかな吉原のソープ街を通り抜け、落ち着いた路地に入り、少し歩くと白い暖簾のかかった古風な建物が見えてくる。暖簾には「カストリ」と書かれている。カストリとは、終戦直後に出回った粗悪な密造焼酎のこと。戦後、エロ・グロな内容の大衆娯楽雑誌が濫造され、カストリ雑誌と呼ばれた。その多くはすぐに廃刊になったが、カストリ酒のように「3“合”でつぶれる」ことからそう呼ばれたと言われる。そんなカストリの名を冠した書店〈カストリ書房〉のオーナーが、渡辺豪さんだ。
渡辺さんは、IT企業に勤務後、ライフワークとして調査していた遊廓・赤線関連の書籍を専門に出版するカストリ出版を2015年に設立。その翌年に、古今東西の遊廓・赤線関連書籍を販売する〈カストリ書房〉を元吉原遊廓内の敷地にオープンする。
「元々、古いものが好きだったんです。でも、古さそのものではなく、古いものが失われる「瞬間」に惹かれていました。旅行が好きで各地を感興のままに歩き回っていたのですが、街外れで遊郭の建物を目にする機会が多かったんです。そうした建物が目の前で取り壊されていたり、訪ねた数ヶ月後に失くなっていたりすることを何度か経験しました。遊郭という歴史が、今まさに自分の目の前でなくなっていくことに衝撃を受けて、それから意識して全国の遊郭を訪ね歩くようになったんです」
遊廓建築、カフェー建築と呼ばれる装飾的な独特の建築様式にも惹かれたが、渡辺さんの関心を最も引いたのは、その場所にかつてあった人々の営みだった。
「遊廓・赤線を経営していた人、仕事をしていた人が、どんな暮らしをしていたのか、どんな気持ちで働いていたのか知りたいと思ったんです。それで、元遊廓エリアを巡って、元経営者やその家族に話を聞きに行きました。最初はそうした過去について語りたがらないのではないかと思っていたのですが、意外にも皆さん饒舌に語ってくれました。遊廓というと何かおどろおどろしいイメージがある人も多いでしょうが、実際にそこに生きた人々がいたことを知れば見え方が変わると思います」
正しい歴史を共有すべく出版社を設立
遊廓・赤線に関する一次資料は非常に数が少なく、国会図書館にも残っていないことが多い。そこで、渡辺さんは正確な情報を求めて、地方の図書館まで足を延ばして資料を探索した。カストリ出版では、そうした貴重な書籍の復刊にも取り組んでおり、これまでに、昭和5年に刊行された『全国遊廓案内』や売春防止法が施行される直前の昭和30年に出版された『全国女性街ガイド』といった本を刊行している。
「インターネットで様々な情報にアクセスできる時代になりましたが、その分、ノイズも増えました。似たような情報が溢れていて、一定以上の深さの情報には辿り着けないんです。かといって過去に素晴らしい労作があってもプレミアが付いていて簡単には手に入らない。そうこうしている間に遊廓建築はどんどんなくなっていく。そこで、今や貴重になった昔の遊廓関連本を復刊して情報共有をしたいと思ってカストリ出版を立ち上げました」
一方、渡辺さん自身は遊廓・赤線跡を訪ね歩き、写真に残すこともライフワークとしている。2020年には、10年にわたり取材・撮影した遊郭・赤線跡をまとめた写真集『遊廓』を出版した。
「私にとって遊郭・赤線建築の魅力は、つくり手や行き交った人々の欲や情念を感じられることです。世の中にある「美しい」とされているモノはすべて何らかの強いモチベーションからつくられていますよね? 武器や拷問器具など明らかにネガティブな目的のためにつくられたモノでさえも、ときに美しく映るといった矛盾めいたことが起きる。それらは強いモチベーションによってつくられているからです。人間にとって最も根源的な欲、つまり性欲や金銭欲が渦巻いていた遊郭・赤線建築に奇形的な美しさが芽生えて、洗練されていった。そしてその美しさの後ろにある、女性の悲しみという情念も忘れてはならないものだと思います」
消えゆく文化を目の当たりにできる最後のチャンス
遊廓を舞台にしたエンターテインメント作品が登場したり、街歩きをしている時に見つけた遊廓建築をSNSで発信する人が増えたりしたことで、遊郭・赤線の存在を知る人や興味を持つ人も増えてきた。
「インターネットの発達もあり、今までアングラとして扱われてきたものが表に出てくるようになりました。遊廓・赤線もタブーではなく、サブカルチャーの一つのジャンルになったように思います。ただ、せっかく興味を持ったのなら、ぜひ、現地に足を運んで、遊廓・赤線建築をその目で見てほしいですね。情報は残り続けますが、建物はどんどん減っていく。自分たちが生きている時代に一つの歴史や文化が消えようとしている。今が当時の姿をとどめた遊廓・赤線建築を目の当たりにできる最後のチャンスですから」
〈カストリ書房〉に訪れる客の8割は、20代後半から30代の女性なのだという。なぜ若い女性が、今、遊廓・赤線に惹かれるのか?渡辺さんはその理由をこう考える。
「性や愛のあり方が変わりつつある現代は、因習から解放されるのと同時に、寄る辺も失いつつある。ある種の制限や抑制が「女性らしさ」として扱われてきた女性ほど、心許ない感覚に陥っているのではないでしょうか? 母や祖母の生き方がロールモデルにならなくなってきた。そんな中で、性愛の歴史の一つである遊郭に、現代女性は何かしら生きるヒントを求めているのかもしれませんね。加えて、この先行き不透明な世の中では、裸一貫で生きていた遊女が、同性にはなおさら逞しく、もっと言えば格好良い存在として惹かれるのかもしれませんね」
かつて全国に約600カ所あった遊廓・赤線だが、そのほとんどは姿を消している。今後も保存していくことは難しいだろうと渡辺さんは語る。だが、〈カストリ書房〉での活動を通して、将来、成し遂げたい夢が一つあるという。
「やはり本で伝えられることには限界があります。本物の建築というリアリティの前では霞んでしまう。ですから、遊廓・赤線建築を一つ手に入れたいんです。それをできる限りそのままの形で保存して、後世に伝えていきたいと思っています」