2013年2月1日号から2021年7月1日号まで、弊誌・ブルータスにおいて連載された、作家・戌井昭人さんによる『沓が行く。』が、大幅な加筆で書籍化された。
長谷川伸の股旅もの『沓掛時次郎』にあやかって付けられたタイトルの通り、あちこちに旅をしては写真を撮り、詩のような、はたまた小説のような超短編を添えている。
手がけるパフォーマンス集団・鉄割アルバトロスケットの演目のように、ブルースを感じさせる掌編は、いかにして生まれているのか。戌井さんの散歩旅に同行し、『沓が行く。』が生まれる過程をルポする。
異端の作家のルーツに触れる、
上野・浅草、オン・ザ・ロード
戌井さんは、ひたすらに歩く作家だ。歩きながらネタを拾い、歩きながら考える。待ち合わせのたびに、「今日はどこどこから歩いてきた」と言って、汗にびっしょり濡れたTシャツで現れ、「じゃあ」と手を上げて、サウナに寄って帰ると消えていく。
今日の待ち合わせは、上野駅中央改札。戌井さんがかつて暮らした浅草へ、裏路地を歩きながら向かう。
「ここの蕎麦屋は、ほら古今亭志ん朝が常連だった店。すごく美味いわけじゃないけど、雰囲気はいいよね」
「『ちゃくれん』っていう名前のホテルがあそこにあるんだけどさ、競馬で当たったらどうぞってことかな。まだ入ったことはないんだけど」
「あそこの仏壇屋の庇は、クルクル回すと出てくるヤツだったんだけど、妙にプロっぽいおじいさんが腰をういんういん振りながら回してたんだよね、昔。あれ、また見たいなあ」
角を曲がるたび、新しいネタが繰り出される。知った道だからか、歩みに迷いがない。最初に「ここいいかも」と立ち止まったのは、ビルと鳥居がほとんど接するほど近い下谷神社だった。
「これ、変だよね。どうやって建てたんだろう」と、その極端に接近しているビルと鳥居のすきまにiPhoneを向ける。戌井さんが撮る被写体は、どうやら社会の規範から少しずれた隙間とも呼ぶべき、不合理のようなものらしい。
お参りを済ませて歩き出し、次に写真を撮ったのは、閉店して人が住んでいるのかもわからない古い菓子店のガラス戸の中だった。
写真と言葉の相乗効果で、
ブルースは加速していく
撮った写真にどうやって物語をつけるのですか? と隣を歩きながら聞くと、「うーん、そうだなあ。写真を見てそのまま思いつくことというか、あんまりこねくり回さないようにしているかな」と、わかるようなわからないような答えが返ってくる。
「ここが、昔、住んでいたマンション。あの4階の角に住んでいたんだけど、毎朝、前の飲み屋から出てくる男が女性器をいろんな言い方で叫んでたんだよね。どんな奴なんだろうと思って見ようとしても、もういない。眠い目をこすりながら毎朝、見下ろしてたのに。どんな奴だったんだろうね」
そう言いながら、そのマンションの裏手にあるゴミ捨て場、それから向かいの古びたアパートの急階段を撮った。
戌井さんは学生時代から、浅草寺からすぐの場所にある団子屋さんでバイトをしていて、その後、西浅草に住んでいた時期がある。そのために上野から浅草までの下町は、庭のように隅々まで知っている。
団子、食べる?と案内された〈浅草 よ兵衛〉で女将の竹山智子さんを呼び出す。
浅草に独特の湿気があった時代、
戌井さんは団子を焼いていた
「あらあら、戌井ちゃん」と嬉しそうに現れた竹山さんは、「この人、台風みたいな人だから、いつも急に現れては、去っていくのよ」と言いながら団子とクリームソーダを振る舞って、昔話をしてくれた。
「いつも友達を連れてきては、朝まで飲んだくれてそのまま床で寝ちゃってたわよね。鉄割の舞台の小道具もうちから持っていったりして。ゲイのお爺さんが二人でやってる店に飲みに行って、私が歌ったらブーイングだったのに、この人がカラオケ歌ったら大喝采だった。あの手が震えてたお爺さんの店ももうないわよ」
竹山さんは元スタイリストで団子屋さんの女将という異色の経歴を持ち、多様な文化に明るい人だ。戌井さんがアンソロジーの編者を務めたこともある深沢七郎について教わったのも、竹山さんからだという。まるで小説の世界のようなエピソードが戌井さんの口から続く。
「隣の駐車場に怒りっぽい路上生活者の人がいて、いつも怒ってたんだけど、これは仲良くなった方がいいなと思って団子を差し入れしてたの。そしたら暮れに在庫を店の外に置いておくとしっかり守ってくれてた。あの人ももういないのかね」
旅をしながらネタを探して、
写真に収めて、作品となる
観光名所として再び脚光を浴びる以前のまだ仄暗い雰囲気の残った浅草は、戌井さんの嗜好とバッチリはまっていた。「間に合ったんだよね」と言う戌井さんの目を通せば、まだ随所に、その残り香が立ち込めている。土地に身を浸すようにして暮らし、そこで偶然出会ったブルースを感じさせる人々が、作家としての素地を培ったのかもしれない。
『沓が行く。』もその延長線上にあって、日本全国、いや世界中を旅しながら、同じ匂いを感じる被写体を切り撮っている。単行本の「はじめに」には、こんな言葉がある。
「屁を嗅ぐように写真を撮り、屁をひるように文章を綴る」
その「屁」のような面白さと哀れさがない交ぜになった感情に、きっと愚かな人生のペーソスを感じるはずだ。
小学生にもかかわらず、戌井さんに鉄割の舞台に上げられていたと言う竹山さんの息子さんにも挨拶をしてから団子屋さんを出て、隅田川で雨に煙る東京スカイツリーを眺めてから、再び上野まで歩いて帰った。
沓が行く。〜番外編〜
「のぼれない階段をのぼりたいの」
戌井昭人/文・写真