場所ごとにやりたいことを切り替えられる空間に
『海獣の子供』や『ディザインズ』などの作品で、アニミズム的な世界を壮大なスケール感と圧倒的な画力で描く、漫画家の五十嵐大介さん。そのアトリエは、連載中の漫画『かまくらBAKE猫倶楽部』でも舞台とする鎌倉に程近い、静かな高台にある。自宅の一室に構えていた仕事部屋を、家の近所に移したのはつい最近のことだという。
「子供が大きくなってきたので、部屋が必要になって追い出されたんですよね(笑)。以前は仕事道具から資料までを一部屋に詰め込んでいたので、本の壁に囲まれて描いていたような状態でしたが、広くなった今の仕事場には、用途の違う机がいくつかあります」
朝、子供たちを学校に送り出してから、8時30分には仕事場へとやってくる。漫画の執筆は、日当たりの良い窓を背にしたローテーブルで。デビュー当時から30年近く使っているという傾斜台と座椅子は、作品とともに歩んできた大切な相棒だ。画材や原稿用紙、資料などが雑然と散らばっているようにも見えるが、腰を据えて作業に集中するために、すぐに手を伸ばせる位置に必要なものがきちんと揃えられていた。五十嵐さんは、ほとんどの時間をここで漫画に費やしている。
「床に資料を並べたりすることが多いので、低い机で作業をする方が、効率がいいんですよね。いったん原稿作業に入ったら、あちこちにものを取りに行ったりしなくてもいいように、連載中の作品の資料など作画中に使いそうなものは、本棚から持ってきてすべてそばに置いています。
物語を考える作業は無音でやっていますね。逆に、昼間のペン入れは、耳心地のいいラジオを流しながら。周囲の雑音を音でシャットアウトして、バリアを張るんです。静かな夜には鳥やフクロウが鳴いたりするので、その声を聴きたくて耳を澄ましたり。いろいろな音がする方が、自分としては落ち着くんですね」
時折、身近な自然に心を寄せながら、コックピットのような効率重視の作業場で原稿に没頭する。たくさんあるペンについて聞くと、使っているのはほんの数本だった。
「いろいろ試してみたものがごちゃっと置いてあるだけで、主に使うのは、つけペン1本とボールペン。あとは下絵用の鉛筆だけですね。ボールペンはぺんてるのハイブリッド、鉛筆はステッドラーの2Bとずっと決めています。以前、山奥に住んでいた時に、近所の個人商店でも売っているような道具で描きたいと思って手にしたのが、たまたまこのボールペンで。
『魔女』などの作品もそうですが、一時期はこれ1本で漫画を描いていたこともありました。田舎から引っ越してからは、またつけペンに戻りましたが、普段から持ち歩いていて、スケッチやメモも全部このボールペンでやっています」
弘法筆を選ばずという言葉は、まさにこの人のためにあるのだろう。線によってペンを替える人もいるが、そこまでのこだわりはないと、あの描写力をしてさらりと言ってのける。そんな五十嵐さんのもう一つの机は、仕事机とは対照的に遊びの想像力を掻き立てる、森の工房のような空間だ。
「大きな作品を描く時などは、使わない押し入れを利用した工作机を使います。最近はもっぱらここで、連載中の『かまくらBAKE猫倶楽部』の猫雑貨屋さんに登場させるための商品を試作していて。猫のマトリョーシカや革の立体もそうですね。漫画の仕事って、どうしても紙ごみが大量に出てしまうので、それらを使って試作をしてみたり。ちゃんと形にするというより、楽しいから無心で手を動かしているだけなんですけどね」
猫の試作品のほか、タコやシロナガスクジラ、熊に怪獣など、五十嵐さんが大好きだという海や陸の生物たちの工作も。天井からぶら下げられたカゴにも、動物たちがたくさん詰め込まれていた。
「だいぶ前ですが、東京ステーションギャラリーでシャガールの石彫を見て、生まれて初めて美術品を欲しいという感覚になったんです。そこから刺激を受けて、自分も立体をキャンバスにしてみたいなというのがあって。子供の頃から設計図を引かずに、ハサミで紙を切って料理のレプリカや鉄砲のおもちゃを作ったりするのが好きだったので、作品というよりはただの遊びの延長ですね。猫のマトリョーシカの耳は革でできていて、潰れるので中にしまえる。そういうのを考えるのが楽しいんです」
押し入れを眺めているこちらにも、夢中になった時間が伝わってくる。ここには、干からびたヒトデやモダマの種、標本になったサワガニ、天候によって中の白い結晶の形が変化するストームグラスなど、五十嵐さんが集めてきた宝物も大切に並べられている。物語が纏う豊かさのようなものはきっと、この秘密基地のような工作机から生まれてくるのだろう。
「ここでは立って作業することも多いですね。アイデアは体を動かしていないと出てこない気がするので、考える時はなるべく動くようにしていて。ここで手を動かしたり、外を歩いたり、遊びで作ったものを見たりするうちに、またいろいろなアイデアが出てくる。近くの森を歩くのも楽しいですよ。自分にとって1人でいる時間というのはとても大事。集中できる場所があることに助けられています」
座って腰を据える原稿と違って、立って手を動かす作業は思いつきでパッと動けるのもいいのだという。仕事場にはアシスタント用の作業デスクもあるが、誰かがここに来るのは〆切前の2日程度。基本的には全作業に五十嵐さんが手を入れている。膨大な作業を支える、フクロウの鳴く仕事場。その2つの机で今日も、物語と向き合う1人の時間が紡がれている。