「事務所の本棚にあるのはほとんどが写真集で、以前に比べて量を4分の1くらいに圧縮したんですよね。活字の本は自宅にあって、そっちも限りなく圧縮中。2階のひと部屋のいくつかの本棚と床を本だらけにしたことがあるんだけど(下の写真)、コロナ禍もあってだんだん気が重くなってきちゃったんですよ。
人生であと何度この本を開くのかなと。それで、本当に好きな本を繰り返し読むのが自分には合っているという気持ちに落ち着いてきた。買った本はすぐに読んで手放していても、愛読書を再読しているので読書量は落ちていない。だから今は枠を決め、そこから増やさないようにしています」

現在の自宅の本棚は随分とコンパクトになった。しかし棚に仕舞ってしまうとなかなか手に取らなくなるので、繰り返し読む本はいつも作業をしているテーブル脇の木箱に入れたり、床のあちこちに平積みしたり、トイレや浴室などに置いている。
ミニマムになった本棚と木箱からできるだけあふれないように、もう再読しないと思われる本や何年も開いていない本は、吟味することなく3、4ヵ月ごとに吉祥寺の古書店〈百年〉に引き渡している。
「最終的に手元に残して繰り返し読んでいるのは、主に海外文学の短編集です。長編小説って長い間その世界に浸っていられるものだけど、何か引き延ばされている感じがして、短編の方がしっくりくる。短編集は通して読まなくても、適当に開いた箇所から読めるのがいいところ。
オールタイムベストの『新訳 チェーホフ短篇集』はもう何度も読んでいるから、このページの、この一節だけ読むのでもいい。僕は小説も映画もそうだけど、結末にはあまり興味がないんです。起承転結を求めてはいない。それは写真家だからかもしれないけれど」
外国文学は距離があるからか、小説を小説として読める
本格的に読書を始めたのは大学入学後で、20代はどんな本が好きなのかを模索していた。30代になって出会ったのが内田百閒の作品。百閒も短編が得意な作家であり、自分はこういう小説が好みなんだと気づいたという。
「トーベ・ヤンソンの短編集『軽い手荷物の旅』も、何度も読み返しています。約10年前からフィンランドに通い始めて、トーベがパートナーと2人で暮らした無人島の“夏の家”に船で渡ったり、その周辺の群島に生えているキノコを撮影したりしました。この本はその頃に手に入れたんじゃないかな。短編のどの主人公も孤独な人ばかりで、全体に流れている寂しさがチェーホフの作品と似ている気がしたんですよね。それも暗い寂しさじゃなくて、自ら望んでその状況に身を置いている感じが」
2つの作品が似ているという感覚は、ロベルト・ボラーニョの『[改訳]通話』とナタリア・ギンズブルグの『小さな徳』(河出書房新社)にもいえて、この秋に渡米した際には2冊を持っていき、1編ずつ交互に読んでいた。短編小説集は旅や移動時間の友でもある。
「2020年から韓国文学の本も手に取るようになりました。クオンのショートショートシリーズは、一編一冊という形式がいいし、読みやすくて解説も載っている。たぶんほとんど読んだと思います。韓国文学は練られているうえにコンセプチュアルで面白い」
床のあちこちにできた本の“群島”には、積み方やジャンル分けなどのこだわりは特にない。そのラフさは、帯もカバーも外して読み、本の角がこすれて丸くなっても気にしないという扱い方にも表れている。線も、読みながら心の琴線に触れた箇所にどんどん引く。その線が次に読むときの指針になる。そうやって、何度も読むうちに本や文章が自分の内側に浸透していく。
「外国文学は自分との距離があって、小説を小説として読める気がしています。日本の小説は近すぎてどこか冷めちゃうから、読み返したくなる作品は少ない。でも『私はあなたの瞳の林檎』などの舞城王太郎の小説は、覆面作家だからなのか、全部読んでいます。この作家は小説だから書けることを書いていると思う。古井由吉もどこか遠さがあって。
『われもまた天に』など晩年の作品はみんな好き。“小説は事件を書くことが多いけれど、事件と事件の間の『無事』の時間を書いてみたい”と古井さんは言っていて、それは写真と非常に似ている。写真も事件や事件を起こすようなことを撮るけど、何もないところを撮りたいというのは僕の中にもあるんです」
本当に好きな本だけを手元に置いて、好きなだけ読んでいる今が一番幸せだと語る。理想の読書空間を、小さな本箱と床の“群島”が作り上げている。
必要な量だけの床置き本の群島と、何度も読み返す愛読書