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平山昌尚×五月女哲平。町の掲示板の絵のように、変化を歓迎する作品たち

平山昌尚展の初日、オープン前に会場を訪れた五月女哲平さん。アーティストとして共鳴するという2人は、互いの作品をどう見ているのだろうか。

photo: Masayuki Nakaya / text&edit: Asuka Ochi

雨風や光に晒された、最終形こそ見届けたい

平山昌尚

2017年にグループ展で一緒になってからもあまり話す機会はなかったよね。でも昨年、神戸に帰省したタイミングで、五月女さんが展示をしているのを観に行って、まだ実現はしていないけど、作品を交換しようと話したりして。それから声をかけてもらって、秋には2人展をやることになったりね。

五月女哲平

作品が作られるプロセスやアプローチの仕方は互いに違って、平山さんの作品はミニマルでスピード感があるけれど、僕はむしろ逆。絵の具を塗り重ねたり、作業的にも時間がかかる。でも、出来上がったものを見た時に、何か感じるものが昔からあったんだよね。美術の世界の理屈をつけて2人展をやろうとすると、結構大変なんじゃないかなとは思うけど。

平山

背景を説明しだすと難しいというか、長くなりそうだよね。五月女さんの作品も見た目はシンプルだし、僕も大きな流れで言えば、どんどん記号化をするようになっているから、似ているところはあるのかな。最近の作品は特に、昔に比べてどんどん抽象的な方向に進んでいるよね。

五月女

いろんな理由があるんだけど東日本大震災が大きかったと思う。個展直前にスタジオで絵を描いていたら地震で作品が倒れてきて、壊れたり傷ついたりした。それを見た時に、自分のなかでペインティングが単なる"もの"でもあることを再認識して。絵画という、ある種の神聖さや特別感から少し距離を置いて、物質的に作品を観られるようになった。

平山

なるほど。僕も自分の作品に傷がついたりするストレスを抱えるのが嫌というのはあるかな。

五月女

作品以外で平山さんがグッズを作っているように、僕は装丁を手がけたりしているけど、自分の装丁の本がめちゃくちゃボロボロに読み込まれているのをSNSで見た時に、完成した、と思ったんだよね。もの自体というより、様々な場所にイメージが広がることで、どういう完成形があるのかを可能性として考えられるようになった。

"守られない"という作品の価値観

五月女哲平と平山昌尚
平山昌尚さんと五月女哲平さん。

平山

それこそ今回の展示は極端で、作品は雨ざらしのものもあるし、日光も当たる。でも、屋外でやってみたかったんだよね。町の掲示板に絵が張ってある感じもいいなと思っていて。最初はギャラリーのなかだけで完結する予定が、隣のカフェや周辺も含めた展示になった。

五月女

庭がいいよね。ドイツで1977年から続く、10年に1度の芸術祭、ミュンスター彫刻プロジェクトで、前回展示されていたジェレミー・デラーの作品「地球への伝達は、あなた自身を明らかにする」を思い出したりした。それは庭の利用者に日記をつけてもらうという長期プロジェクトなんだけど。さっきみんなで腕まくりをしながら外の植木のところに作品を設置する作業を垣間見られたこともあって、ただ置いただけではないような、制作の過程も含めた面白さが伝わってくるなと。

平山

ギャラリーの方には3点しか飾ってないからね。

五月女

ギャラリーの壁1枚に1点ずつなんて、巨匠のやり方だ(笑)。でも逆に、庭や店内などパブリックな日常のなかに作品が置かれていることで、いい意味でドメスティックな部分が見て取れるのかなと。外壁に張ってあると、特殊な記号や看板のようにも思えるし、置き場所でだいぶイメージが変わるね。

平山

朝と夜とでも印象が違って、青バックのチューリップの作品も、夜になると炎みたいに見える。環境からより影響を受けるために、絵自体をなるべくシンプルに、というのは意識したかな。すでに虫の歩いた跡がついていたりして作品が変わってきてるから、最終的にどうなっちゃってるかはわからないけどね。

五月女

真っ白に戻ってたりとかして(笑)。

平山

落ちて踏まれて足跡がついてたり(笑)。でも、そうやってボロボロになってくれてもいいなと。

五月女

そうなることが作品としての自然なありようだとしたらそれはそれですごくいいなと思う。

平山 

作品が自分の手を離れていくような感覚に惹かれるというか、そこに執着しても仕方がないという価値観は、お互いに共通しているのかもね。