入りやすいのに、
そこで得る体験価値は
異常に高いと思います
煉瓦の壁に真っ赤なシェード。どこから見てもレトロ喫茶風の外観ながら、ショーケースのメニュー見本は、ホットケーキやクリームソーダではなく、タンメンやチャーハン。近頃渋いオーラを放つ中華屋(*1)が気になるという平野紗季子さんが〈オトメ〉に「ハートをズキューンと射貫かれちゃった」のは、この異色の“しぶカワ感”ゆえのことである。
「1年ほど前に鶯谷からバスに乗って根津にさしかかった頃、窓の外にオトメを発見。店名に一目惚れして、絶対行こうと心に決めました。実際に訪れると、店内も期待を裏切らずラブリー全開で、煉瓦の上に太陽みたいな丸い鋳鉄細工を施した間仕切りが印象的。照明はホテルオークラ調、卓上には可憐な一輪挿し、流れるBGMはクラシック。お店のかわいさと、お料理のおいしさに、ますます心を奪われました」
乙女チックな店名は、70年近く前の開店当時、パン屋を兼ねていたことに由来する。店主・落合秀雄さんは2代目で、90歳を越えてなお厨房で鍋を振る父・光さんと、30代の息子・晃太郎さんの3世代で店を切り盛りしている。
開店から10年ほど経った頃、地元で「権現様」と呼ばれる根津神社の裏門坂に移転、その5年後に今の場所に戻ったとき中華料理店として新たにスタートしたのだが、パンの技術は、名物「五目かた焼きそば」に活かされている。製麺所から届いた麺は、1〜2日店で発酵させてから揚げる。
「だから、外側パリッ、嚙むとふわっとした食感、口に運ぶと甘味が広がるんですね。あんに鶏の唐揚げが入っているのがスゴイ。ロースハム、チャーシューなど、数えたら具が16種類も入ってました!かた焼きそばが何より好きなのですが、こんなに、賑やかなのは、初めて」
親子3代が大事にする〈オトメ〉ロングセラーである。
中華は、体験として面白い。
そして食べ手を助けてくれる
店のこぢんまり感ゆえか、ふらりと訪れるお一人様が多い。
「私もご飯は1人が多い。孤食が好きなので寂しいから人を誘うってことはまずないんです。夕食の予定がない日は、今日どこ行こうかなーと日中あれこれ考えますが、中華に行き着くことが多い」
行きたい店は常にリストアップして携帯しているが、イタリアンやフレンチは、1人客に冷たいそう。
「電話しても“1人”と告げた時点で“ラストオーダーギリギリです”とか言われることが多いし、お酒が飲めない私には居酒屋文化はハードルが高い。カレーは、こちらの元気がないときはスパイスに負けてしまう。かといって和定食は、味噌汁一つとっても、慣れ親しんだ味を求めて、評価が厳しくなるんです」
ところが中華は何でもこい!
「自分の中に中華の味の芯が確立してないからかな。塩辛い炒め物も獣臭のスープもOK!」
そして中華は面白い。
「新鮮な景色に遭遇することが多いんです。お店の方が店内でまかないを食べ始めたり、子供が宿題していたり、シェフが現金を生のまま(財布に入れず)持ち歩いていたり。階段から黒猫がこっちを見ていたことも!(*2)中華ほど店ごとに、いろんな個性のあるジャンルってないような気がします」
人が外食に求めるものは、非日常感だったり、人との距離を縮めるツールだったり、自分へのご褒美だったりといろいろあれど、平野さんにとって、外食は「体験」だ。
「映画を観てアドレナリンが出るのと同じように、食べることで、気持ちが上下することの中毒。特に中華食堂は、面白いことが起きやすい現場だと思います」
そして中華は人を助けてくれる。
「赤坂の〈珉珉〉(*3)は、餃子と半ラーメンがおいしくて美しい。夕方、仕事で生気を吸い取られた状態で行くと、名物おばさまが、つきっきりで食べ方を教えてくれる。そして帰りに背中をバンッと叩いてスナック菓子をくれるんです。生命力が蘇るライフハック(生産性を上げる仕事術)です。
代々木上原の〈按田餃子〉(*4)は、“たすけたい つつみたい”が合言葉ですが、まさに有言実行。体に優しいお料理は、上京したてのすべての若い女子に教えてあげたい。町の中華って、ただ腹を満たすだけでなく、癒やしの場でもあるような気がします」
町の中華は、イギリスのパブや、イタリアのバールみたいに、町のリビングルーム的存在なのかな。
「あ、たしかに。そして、ついに漂着したのが、ここオトメです。“若鳥香り揚げのレモンソース和え”とか“中華風ステーキ”も、とっても魅力的!トビラの向こうに違う世界があるような、店を出た後、夢のような感じがすることって外食としてとても重要な価値だと思います。そしてそのすべてが詰まっているオトメは、私の理想の町の中華です」