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ヒコロヒー「直感的社会論」:キミの居場所は本当にそこなのか?

お笑い芸人、ヒコロヒーの連載エッセイ第30回。前回の「この火の粉に飛び込むのは、勇敢か、愚かか?」も読む。

text: Hiccorohee / illustration: Rina Yoshioka

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キミの居場所は
本当に
そこなのか?

目玉焼きはよい。目玉焼きほどよいものがこの世にあるのだろうか。焼き加減はさして重要ではなく、必要なのは白身の厚さである。白身が絨毯のように薄く広がっているそれも健気でよいのだが、私としては座椅子のような座り心地を感じられる白身がよい。ある程度の弾力を感じられそうなそれである。

一方で黄身はどちらでもよい。ひと突きすればどろりと漏れ出てくる溶岩のようなそれもよいし、固まりすぎて濁った黄み色を纏(まと)いながらも頑として自我を貫くそれもよい。目玉焼きは、万事がよいのである。

炒飯の上にいるお前も、焼きそばの上にいるお前も、お好み焼きの上にいるお前も、ただ一人で佇むお前も、この世の誰が嫌いであろうか。むしろ、お前こそが、より一層炒飯の品格をあげることに成功しており、焼きそばの威厳を守り、お好み焼きの快楽を刺激しているのである。

たまに見かけるハンバーグの上で目玉呼ばわりされているお前も、ハンバーガーの中で月見呼ばわりされているお前も、私にはどんなお前も愛し続ける覚悟があった。はずであった。

先日、喫茶店でサンドイッチを注文した。するとそのうちの一つに、固めに焼かれた目玉焼きが挟まっていた。私は生まれて初めて、「お前こんなとこで何してんねん」と目玉焼きに対して声を荒げた。お前はこんなとこにいていい奴じゃないやろとほぼ絶望しながら、あるいは憤りながら、呟(つぶや)いたのだった。

パティとバーグに挟まれるお前はあんなに輝きがあるのに、生食パンに雑に挟まれ、丈の短いレタスの間からずるりと転げ落ちそうな弱々しいお前など、私は見たくはなかった。帰ってほしかった。道に倒れて誰かの名を呼び続けたことがあるのは中島みゆきだが、パンに挟まれた目玉焼きに向かって帰ってほしいと願い続けたのは、紛れもなく私であった。

それから私は、目玉焼きの適所について考え続けている。愛するものに愛することのできる場所にいてほしいと思うのは傲慢だろうか。お前がそれでいいと言うのであれば、それを尊重するのが愛なのだろうか。私はとうとう考えることに疲れ果て、昨日から、ゆで卵ばかりを食べることとなっている。

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