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ヒコロヒー「直感的社会論」:日々働いてばかり、なのかどうなのか?

お笑い芸人、ヒコロヒーの連載エッセイ第27回。前回の「自意識や羞恥心がもとになり、失くしてしまったもの」も読む。

text: Hiccorohee / illustration: Rina Yoshioka

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日々働いてばかり、
なのか
どうなのか?

粛々と働いてばかりの日々である。観たい映画が気がつけば公開時期を終えていることにも慣れ、読みたくて購入した本もただベッドの脇に積まれていく。結婚式の招待状に仕事でやむなく欠席と返信する旨もさらさらと入力できるようになってしまった。粛々と働き、酒を飲む日もあれば、飲まない日もある。早くに仕事が終わる日は、一人で深夜まで喫茶店で作業する日もあれば、思いたって生牡蠣を食べに行く日もある。

何か気が滅入ることが起きても、数時間後にこの身体で照明の下で喋っていると思うと気が滅入っている場合ではないと背筋が伸びる日もあれば、こんな状態で照明に当たれば足元から溶けていってしまうのではないかと奇妙な不安に苛まれる日もある。

時々、好きな男ができる日もあれば、幻滅しては逃げるようにタクシーをつかまえる日もある。タクシーといえば運転手さんに不遜な態度を取られて一気に機嫌が損なわれる日もあれば、不遜な態度を取られても、あああんた疲れてんだねと労ってさえやりたくなる日もある。

何かの発言を切り取られ非常識な極悪人のようにネットニュースに取り上げられ、そんなことで小銭稼いでお前の人生何が残るねんと正面切って真っ二つにしてやりたくなる日もあれば、こんなことで心を乱されているようでは未熟であると自分を律することができる日もある。

ささいなことに疲れてもう全て投げ出して遠い島にでも行ってしまおうと思う日もあれば、疲れていてもこのような毎日を送ることができてとても幸せだと噛み締める日もある。そうしてやっぱり、粛々と働いている。これらを働いてばかりの日々だと思うことは簡単だけれど、どんな日も、いろんな日である。この身体で、この感受性で、さまざまな時間を過ごしている日々だ、と述べることが真実であり適切なのかもしれないと、ふと考える。

働いてばかりであるという簡単な不幸に流されるのではなく、実はいろんな日々を過ごしていて豊かばかりであるという真実の幸福の旗を握っていたい、と、今日はたまたま思える日であり、明日はどうだか知る由もない。しかしそれもまた日々である、と、なぜだかそう考えた今日の日のことを、あの旗がするすると飛んで行かぬようにと慌てて綴っておくのである。

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