洗濯機のない家に住んでいた頃、あまり親しくない人から「ええ?家に洗濯機もないの?恥ずかしいね、かわいそうに」と大きな声でおおいに笑われたことがあった。いや、笑われたというよりかは、笑いを噛み殺すようにして笑われた、という表現の方が正しいような、なんとも意気地の悪いような笑いかたをされたものだった。
私は他人からの悪意に鈍感な節がある。ゆえに巷にはびこるマウントがどうだのこうだのという話題に幸か不幸かついていけた試しがなかった。
しかしこの時ばかりは違った。私に向けられた悪意というよりも、その人自身の価値観に内包されている侮蔑する対象に自分が放り込まれた感覚である。対他人に対する悪意ではなく、その人が確固として持つ尊敬と侮蔑の価値観なだけで、誰かがそれをジャッジする必要もない。
しかしそれはまるで鍋の中になみなみと揺らぐ油のようで、串刺しにされた私自身がさっとその油にくぐらされたような、それから風呂に入っても顔を洗ってもあの油が身体中から落ちきらないような、そんな不快感だった。
洗濯機がないことの何が恥ずかしいものかと不服だった。洗濯機を持たない私ではなく、洗濯機を持たない私をあざ笑うあなたの心がさもしいのではないか、と思った。そして笑われるだろうなどと露とも思わず、堂々と洗濯機はないと述べ、笑われても自分を恥じない自分自身のことを、心底誇らしく思った。
そうして先日、私は遂に洗濯機を買った。至って普通の洗濯機である。しかし私は同時に少しの幸せと、少しの不安も買ったこととなった。
非常に便利であるという幸せと、洗濯機を持ったことによって、いつか洗濯機を持たない人をさし、「かわいそう」と思う日がくるのではないかという不安である。なんとわけのわからぬことを、と、思われるかもしれないが、私はあの人のようになることをひどく恐れているのである。
持たざる者を笑い、持つ者を敬う、その価値観がいつかぽつりと芽生えてしまったらどうしようかと、おさまりが悪いのか轟々と音をたてて回る洗濯機は私を不安に駆り立て続けるのであった。
ヒコロヒー「直感的社会論」:わたしを不安に駆り立てる持たざる者と、持つ者の境界線
お笑い芸人、ヒコロヒーの連載エッセイ第24回。前回の「アメリカでの滞在中に、水商売の「あの」感覚を思い出した」も読む。
text: Hiccorohee / illustration: Rina Yoshioka