人によって態度を変えるな、とは、いかにも美しい講釈である。福沢諭吉先生よろしく、天は人の上にも下にも人を作らずであるからして至極当然の哲学ではあるものの、私のようなぐずにはどうにもそれができない。
例えば業務上のことでその場しのぎの適当なことを言う人だったり、調子が良いだけで裏表がとんでもない人、失敗をごまかすことばかりに長けてきちんと謝ることができない人、いやに高圧的な人、単純にものすごく意地悪な人などはこの世に一定数いるもので、そういう人々とそうではない人々とを同じ態度で接することの方が無理難題なのである。
そもそも「人によって」というのが大枠な括り方だから納得できないのではないかとすら考え、「人の立場」や「人の肩書」や「人の生まれ」や「人の容姿」などである場合に態度をくるくると変えるのは情けないことであるからして背筋を正さねばならないというのは理解できるのだが、自分にとって相容れない人に対しては最低限の礼儀と思いやりさえあれば、態度など変わって然(しか)るべきだとすら開き直るように思ってしまう。
損得勘定、という言葉があるが、やけにそれを使う人がいる。自分にとって許し難いことをされても、あるいは心から信用できる人であろうとも、基準は明確なそろばんがあり、それが損か得かで身の振り方を変幻自在に変えられる人たちだ。私はそういう人たちのことを勝手に「損得塾出身」と呼んでいるのだが、さすがは名門塾である、彼らはある程度のところまで出世していく。
それがなぜなのかは分からないし、何が正しくて正しくないかなどを裁こうなどとも思わない。しかし人それぞれにどういう生き方をしても責任は伴うはずであり「人」によって態度を変えない聖人君子に私はなれないのであれば、それによるさまざまな損や得も引き受けなければならない。
5年後、10年後、この生き方をしていて何が残り何が失われるのか。何も分からないが、必要なのは決して後悔しないことであろうと考える。ああ、あの時あんなやつにも愛嬌見せておけばよかったと、10年後の私がのたうちまわるのならば、それはそれで、引き受けねばならない未来であると妙な腹を括るのであった。