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ヒコロヒー「直感的社会論」:ラブソングをあまり聴いてこなかった。 その理由は

お笑い芸人、ヒコロヒーの連載エッセイ第17回。前回の「語るに値する仕事を私はできているのだろうか?」も読む。

 

text: Hiccorohee / illustration: Rina Yoshioka

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ラブソングをあまり
聴いてこなかった。
その理由は

どうやら、私はラブソングが苦手なようであった。

恋をして恋の歌を聴いた記憶など学生時代に聴いていたスピッツの「チェリー」が最後で、それから恋愛をしてもあまりラブソングを聴くことはなかったし、失恋しても失恋ソングを聴いてうなだれることはなかった。

それどころか、若かりし頃、失恋した私のために友人が歌ってくれた森高千里の「雨」の一節
「雨は冷たいけど ぬれていたいの 思い出も涙も 流すから」
という歌詞に対し、失恋した身でありながら「雨は別に思い出も涙も流さへんやん。雨なんか今、全然濡れたない」と本気で思っていた。

プリンセスプリンセスの「M」なんて私にとっては最悪で「いつも一緒にいたかった となりで笑ってたかった」と未練がましく歌うお姉さんたちに対して「この人たちこんな妙な服着とんのにえらい情けないこと言うとるのう」と本気で思っていた。

さらにそれを誰かに言うと(こいつ終わってる)みたいな顔をされてきたので、いつしか飲み込むようになっていた。多分、本当にどこか何かが欠落しているのだ。

しかしながら恋愛するたびに救われてきた楽曲は確かにある。その方向性が、私の場合は中島みゆきの「蕎麦屋」だったり西岡恭蔵の「プカプカ」だったりしており、なんともいわゆるラブソングからは大きく道を逸れている気がしていただけない。

恋人からのラブソングも同じで、サザンオールスターズの「祭りのあと」は男性がよく歌う人気の一曲だが「情けない男で御免よ」という一節が、私はどうしても許せないでいる。心から、もうあぐらかいてるやん、と、思ってしまうのだ。

失恋した時に、いつか素直に失恋ソングを聴いて泣いたりすることができるのだろうか。もしくはいつか恋をした時に、うれしいたのしい大好きと口ずさんだりするのだろうか。

私という人間は、一体何がどうなってひねくれ続けていくのか、いつか本当に愛する人ができれば、情けない男で御免よと言われて抱きしめてあげたくなるのか、ラブソングの歌詞の意味も、自分自身のことも、全く分からないままでいるのである。

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