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ヒコロヒー「直感的社会論」:人の風下に立つような真似をしてはならない。そう思えた夏

お笑い芸人、ヒコロヒーの連載エッセイ第14回。前回の「私は周囲に、無駄な圧を与えない年の取り方をしたい」も読む。

text: Hiccorohee / illustration: Rina Yoshioka

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人の風下に立つような
真似をしてはならない。
そう思えた夏。

寿司

映画『仁義なき戦い』を初めて見たのは中学生の頃だった。とにかく格好よくてガラの悪い任侠者たちと、信じられないほどのスピーディーな展開、人が死ぬたびにパパパーというラッパ音が強烈に鳴り響くパチンコの確変のような演出、鉄砲玉になる男性たちが前夜に女性の体に貪(むさぼ)りつくという風習、前作で死んだはずの梅宮辰夫が全く違う人物となって蘇るというシステム、とにかくその全てに、子どもながらにかぶりつくように夢中になったものだった。

ただ、やはり子どもだったこともあり内容の皆までは理解できず、仁義なきにおいて理解できないことがなんとなく頭の隅に置かれたまま大人になっていった。

その中でも特に印象に残っているのは「ヤクザの道を選んだ奴が人の風下に立つな」というような台詞(せりふ)である。なぜ印象に残っているかといえば、当時はその意味さえ理解できなかったからで、よく大人たちにどういう意味なのかを尋ねては「なんでそんなもん見よんか」と訝(いぶか)しまれた記憶も付随しているせいもあるかもしれない。

大人になってよく分かる。たとえヤクザであろうとなかろうと、人の風下に立つような真似をしていてはならないということを。たとえ組織に属そうと、上司がいようと先輩がいようと、それらに尊敬の念は抱いても風下に立ってはならない。風下に立つことは、それだけで何らかの恩恵を受けてしまう。何かを利用しようとするから利用されるというのは、この世に蠢(うごめ)く思惑たちの常なのだろう。

誰の力も借りず、誰からも何からも恩恵を受けず、この足だけで大きくなっていくことはひっくり返るほど難しいだろう。しかし、だからこそ、きっとそうしていかなければならないと、誰かに投資を持ちかけられることがあれば、そう思い出していこうと考える夏であった。

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