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文筆家・長谷部千彩が考える、女性にとって男らしさとは?「性に係るイメージから解放されて、その人そのものを見たい」

文筆家・長谷部千彩さんが考える“女性にとっての男らしさ”について。

初出:BRUTUS No.789『男の定義』(2014年11月1日発売)

text: Chisai Hasebe

『私があなたに見ているもの』

昨今、“日本の男性の元気がない”らしい。“男らしさが見えにくい時代”らしい。そんなこと、私は思ったことがない。確かに身ぎれいな男の人が増えた。ひどく外したファッションの男性も減った。野性的な雰囲気を漂わせた男の人は少なくなったかもしれない。けれど、それを嘆くべきことだとは思わない。

十年前、二十年前、男らしい男は日本に多かったのか、考えてみたけれど、よく覚えていないし、覚えていないということは、それほど多くなかったか、そうでなければ私が彼らに魅力を感じていなかったのだと思う。

数年前、女性たちの間で、肉食、草食という言葉で男性を分類するのが流行ったけれど、それもぴんとこなかった。SNSが普及して、出会いの機会が増えた分、男性も女性も無駄にガツガツしなくなったのは、むしろ良いことだと思う。

それに、気に入った相手に対して(だけ)は、昔も今も男性は積極的だし、ならば何の問題もないではないか。時代とともに男性の“らしさ”が変化しているとしても、少なくとも女である私の生活は、別段影響は受けていない。だから、いまの男性に私はそれほど悪い印象を抱いていない。

そもそも男らしさとは何をもって言うのだろう。男らしさというものがあるのなら、女らしさというものもあるということ?その定義は?私にはよくわからない。いくら考えても、それらしいものが浮かんでこない。

でも、それは、もしかしたら、私が女らしさについて深く考えずに暮らしているからかもしれない。「女として」なんてどうでもいいや、と思っているから、男らしさについても考えが至らないのかもしれない。

また、私が若い娘ではないからわからないのかも、と思うこともある。女である自分に対して、男性がどんな役割を担って向き合おうとしているのか、そういったことに年々興味を失(な)くしている。私は、男だ、女だという切り口で物事を見ることに飽きてしまったのかもしれない。

性に係るイメージから解放されて、その人そのものを見たい。ただ目の前にごろんと置かれた物体を見るように、人物をただそこにいる人として見たい、近頃はそんな風によく思う。人と関わる時に、人間というところからスタートさせたいという願い。

本音を言うと、私は、男性らしさを執拗に追求する人に、どこか鬱陶しさも感じているのだ。自分がどうあるべきか、考え過ぎるのは良くない。過剰なこだわりは、自己愛だと思う。時々少し考えて、すぐに忘れてしまうぐらいがちょうど良い。

さらに言うなら、多くの女性たちが、四六時中、女らしさという言葉に振り回されていることもあって、男らしさについて熟考する行為に、私は女性的なものも連想してしまう。結局のところ、男も女も自分に対して無頓着なぐらいのほうが、本人もまわりも楽だし、自然でスマートなのではなかろうか。

とは言え、私の中にも、あの人、男らしいな、素敵だな、という感情が芽生えることはある。でも、それもよくよく考えてみると、男らしい“何か”に反応しているわけではなく──例えば、私は落ち着いた、控えめな人が好きなので、そういった部分が垣間見えると、男性の包容力を感じ、好感を抱くのだけれど、一方で、落ち着いた、控えめな女性に会うと、今度はそこに女性らしさを感じたりもする。

ということは、つまり、こちらが考える美徳を備えた人が、たまたま男性ならば、男らしいと感じ、その人が女性ならば、女らしいと感じる、そういうことなのではないか。ただそれだけの──。

そして、こうも思うのだ。誰かが、私に女らしさを見たとする。もしくは、私を女らしくないと判断したとする。でも、それは相手の心が感じたことであって、私には関係のないことだ、と。私は、男らしさも女らしさも、自らが目指し、表現するものではなく、他者がその人の中に、それを認めるかどうかの問題のように思う。

もう一度引き戻して考えてみよう。日本の男性に元気がないとすれば、日本の男性を取り巻く状況の問題であって、日本の男性の問題ではないと思う。男らしさが見えにくい時代なのだとすれば、それは本質に近づいている証拠なのでは、とも思う。男性的な記号を集めてしまうと、その人自身の持つ男らしさは他者から見えづらくなってしまう。それは女性も同じこと。記号的に女を演じたがる女性は、その人自身が持つ女らしさを隠してしまう。

私にとって男らしさは(女らしさも)、容易に語れるものではない。互いが人間として接して、それでもそれぞれに与えられた性が、どうしても取り去れない形でそこに残ってしまう時、また、その性がその人のフィルターを通して、漏れだすように漂う時、ああ、この人は男性なのだ、そして、私は違う性を持つ女なのだ、という抗えない現実を認めることになる。私が、男らしさを感じるのはそういう時。男らしさは、私にとって、言葉では語れないもの、そう、匂いや動きのようなものである。