ドメニコ・スカルラッティ
ピアノ・ソナタ集(現代ピアノ編)
初めてスカルラッティの音楽に触れたのは1960年代半ば、ホロヴィッツのレコードによってだった。それまでスカルラッティの音楽を耳にする機会は(少なくとも僕には)なかった。この項では現代ピアノで演奏されたものを取り上げる。
ホロヴィッツのアルバムが出る前に、チッコリーニがスカルラッティのソナタだけのフルアルバムを作っている。スカルラッティ研究者であるアレッサンドロ・ロンゴに学んだだけあり、チッコリーニは腰の据わった立派な演奏を聴かせてくれる。
ホロヴィッツのような目を見張る革新性はないが、ハープシコードのために書かれた古い時代の音楽を現代に有効に蘇らせたという点で、その功績は大きい。それほど世間の注目は集めなかったようだが、今聴いても音楽は古びていない。
シフの演奏も見事だ。彼は歴史性よりは、あくまでスカルラッティの音楽の音楽性に焦点を絞り、それを現代ピアノの領域に注意深く賢明に取り込んでいる。ハープシコードの語法に過度に縛られることなく、現代ピアノの技巧的優位性を活用して、独自のしなやかな音楽世界をこしらえている。
このときシフは弱冠22歳。その若さでよくこれだけ隙なく練れた音楽を立ち上げられるものだと感心してしまう。
ワイセンベルクはハープシコード奏者ランドルフスカに学んで、そのときにバッハとスカルラッティの素晴らしさを知った。ほとんどペダルを使用しないが、それ以外のファンクション(テンポや強弱)を駆使して表情をつけ、スカルラッティの音楽を鮮やかに現代化する。
ただしワイセンベルクの演奏、アプローチがどれも似通っているので、長く聴いていると少し聴き飽きするかもしれない。
ケフェレックはホロヴィッツをより洗練化した(そのエキセントリシティーを一般化した)ような音楽を提供している。心ある音楽が時代を乗り越えて、生き生きと表現されている。鋭いセンスと的確なリズム感がそれを可能にしている。
カサドゥシュの演奏は心がこもっていて、隅々まで温かい。どんなに速いパッセージを弾いても、そこには確かな優しさが感じられる。10本の指が音楽を愛する心にじかに結びついているようだ。1955年、この中では最も古い録音だが、現代の耳で聴いても決して古びてはいない。
さて、真打ちのホロヴィッツ。音の句読点をどこまでもはっきりさせ、エキセントリックなまでにきりきりと音楽を絞り込んでいく。まるで指先がいちいち鍵盤に突き刺さっていくような特別な音だ。もともとはハープシコードのための音楽であるという歴史的事実はどこかに消え、それはホロヴィッツ独自の音楽に昇華されている。
One and only その独自性(独立性)の響きのあり方は何かに似ているなと考えていたら、グールドの弾くバッハ「イタリア協奏曲」のそれに似ていた。
ところでスカルラッティとバッハとヘンデルが、3人とも同じ年の生まれだって知っていました?どうでもいいようなことですが。