暮らす人:幅允孝(〈BACH〉代表、ブックディレクター)、ファン(〈喫茶 芳〉店主)
「時間の流れが遅い場所」がどうしても必要だった
立ち止まってゆっくり考える場所がどうしても必要だ。東京は刺激があって楽しいけれど、気づくと過剰な情報と高速回転する社会に時間を奪われそうになる。そう考えたブックディレクターの幅允孝さんは、京都に家を建て、東京との2拠点生活を始めることにした。
京都へ帰る日は、山あいを走る鈍行列車に乗る。時間の流れも景色ものんびりで、思考の回転数が少しずつ鈍くなるのが心地よい。
建物の名は〈鈍考〉。設計は「家づくりは、体感の記憶を頼りに今へ再現する行為」と話す堀部安嗣に依頼した。吉野杉やサワラなどさまざまな木を組み合わせた木造家屋は、派手なところはないけれど、表情が豊かで上品だ。敷地の傍らには小川が流れ、目の前にはヒノキ林と桜の老木が一本。大きな開口で切り取られた景色が屏風絵のようで、足を踏み入れた瞬間から、すっと没入できてしまう。
畳の間を持つ1階には、3000冊の蔵書が並ぶ本棚と、妻のファンさんが手廻し焙煎のコーヒーを淹れる喫茶スペースを設けた。週に4日間は予約制の私設図書室&喫茶室として開放され、それ以外の日は丸ごと居住空間になる。2階はリビングと寝室、サウナも備えたプライベート空間だ。
家づくりを通じ学びが蓄積されたのが楽しかったと幅さんは言う。
「中でも感動したのは、“手刻み”という伝統的な大工仕事。金具を使わず、手加工した木を組み上げていく技術です。低めの天井や深い軒、こぢんまりした空間など、人が心地よさを感じる“ちょうどいい塩梅のスケール”があることも学びました。そういう場で読書に深く潜る時間を持つようになってからは、物事が慌ただしく流れていく中でも自分の足で立ち、人間らしいペースで思考できるようになった気がします」
月の半分以上は、眼前の本と林を眺めながら「時間の流れが遅い場所」に身を委ねる。豊かな時間は、いつだって取り戻せるのだ。