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食べる

小さな町で、地球半周、徒歩の旅。“食べに行ける外国”のある町、群馬県大泉町

群馬県大泉町の総人口41,584人のうち、およそ19%が外国人という(令和4年2月末時点)。ブラジルタウンとして知られるこの町では多国籍化が進み、すべて合わせれば、今では46もの国を数えることができる。日常に旅がある町で、リアルな世界の味を探した。

photo: Takeshi Abe / text: Toshiya Muraoka

取材・文/村岡俊也

群馬県 大泉町
西小泉駅前の交差点にある歩道橋から。さして珍しくもない地方の駅前から徒歩圏内に、ぽつりぽつりと、いくつも多国籍食材の店がある。

「セットには、ライスとサラダバー、それからフェイジョンが付きます。ブラジルの味噌汁みたいなものですね」
店長の岩田ダニエルさんからそう聞いて、まるでファミレスのようだと思った。ポルトガル語と日本語の並列表記以外は、メニュー構成もファミレスのそれに近い。さすが、この町で最も古いブラジルレストラン。

日本に溶け込むとはこういうことかと思いつつ、珍しい料理は?と聞くと、「それなら、シンシン・デ・ガリーニャはいかがです?」と流暢な日本語で返される。バイーア州の郷土料理で、彼の地でも知る人は多くないという。付け合わせにキャッサバのフライとケールの炒め物を頼む。塩の効いたフェイジョンは、ブラジルを旅した際に毎日のように食べた、あの味のままだった。

群馬〈レストランブラジル〉シンシン・デ・ガリーニ
〈レストランブラジル〉で食べた、シンシン・デ・ガリーニャ。ブラジルカラーの皿が可愛い。鶏肉をパームオイルやナッツと一緒に煮込んだ郷土料理。

群馬県大泉町は、ブラジルタウンとして知られる。令和4(2022)年2月の統計では、町民の総人口に占めるブラジル人の割合は、10%を超える。1990年の改正入管法施行によって、日系人に定住者としての在留資格が与えられ、それを契機に工場で働く移民たちが増えていった。

その年の7月にオープンした〈レストランブラジル〉は移民たちに故郷の味を振る舞う最初のレストランだ。日系3世の岩田ダニエルさんは5歳の時に来日し、それからはずっと日本で暮らしている。

ブラジル食材店に行けばマテ茶が棚を占め、国民的料理であるフェイジョアーダの缶詰が並ぶ。ほとんど現地のラインナップと変わらない。客に日本人は一人もおらず、聞こえてくるのはポルトガル語ばかり。それでも、外には「シュラスコ食べ放題」と日本語の看板があり、団地の下階にあった化粧品店には「日本語で対応します」と書かれている。よくある幹線道路沿いの一角に、旅先で見た風景が溶け込んでいる。

その違和感に惹かれて化粧品店に入ると、全身真っ白のコーディネートをしたお姉さんがすぐに声をかけてくれた。「〈レストランブラジル〉はもたれないからいいわね。ほかの国の店はあまり行かないけど、ペルーなら〈アイユス〉。あそこはおばあさんが一人で作っていておいしい」と親切に教えてくれる。その言葉に従って、ブラジルからペルーまで歩いていった。

南米からアジアへ、世界半周、徒歩の旅

〈アイユス〉は、元・焼肉店だったのだろう。テーブルの真ん中に焼き台の名残があり、換気用の配管がされている。少し威圧感のあるオールバックのおじさんは、日本語を話さない。セビーチェを頼むと、「ピカンテ?」と聞かれ、「スィー」とわかったように返す。ああ、この片言のやりとり。

辛いという意味だったよなと不安になりつつ、メニューを指して、カルネ・ア・ラ・パリアという牛の心臓や豚肉のソーセージの盛り合わせと一緒に頼んだ。

セビーチェは確かに辛く、肉料理はしっかりと硬いが、歯切れがいい。少し話をしたくてカウンターまで行っても、やはり英語も通じない。すると客席にいた若い女性が近寄ってきて、通訳をしてくれた。店は12年前にオープンしたこと、来日はさらに遡り、1992年であること、料理を作っている奥さんが日系人だと教えてくれる。

あ、セビーチェの魚は何?と尋ねると、返答の日本語訳がわからなかった彼女は、一緒に来ていた父に聞いて「スズキ」と、少し照れたように言った。ブラジルほどの開放感はないけれど、ペルーはじんわり優しい。

ペルーからの移民はブラジルに次いで多く、1000人を超えている。続く第3位は、430人ほどのネパールだ。東武鉄道・西小泉駅の脇を通り、人が集っていると聞いた〈チャウタリ・スパイスセンター〉へ行った。

食材が山と積まれた店内では、客なのか店員なのか判然としない数名が話し込んでいる。聞けば、利根川を挟んだ埼玉県深谷市から来たインド人の客という。「僕らは肉も卵も食べないから。家に帰って、チャパティ作る。そのためのアターを買いに来た」と言った。

アターとは全粒粉小麦のことらしい。厳格な菜食主義者であるジャイナ教徒なのだろう。彼らの家庭料理も食べてみたいと思いつつ、細く暗い通路を進む。キッチンを挟んで、さらに奥がレストラン。ネパールとインド、どちらも並んだメニューから、550円のダルバートを頼んだ。

食べ始めても、シェフがキッチンに戻らない。その暇そうな姿も、まるで現地にいるようでつい話しかけると、シェフは世界を旅して日本にやってきたという。ドバイ、カタール、インドを経て、日本に8年暮らすネパール人。カトマンズ近郊の古都・バクタプルの出身で、「その町、行ったことあるよ」と言うと、目を見開いて「次はいつ行くんだ?叔父がやっているホテルがある」と言われた。

曖昧な返事でいなしつつ、なぜ日本に来たのか尋ねると、「お金だけならドバイだけど、日本はセーフだから」と真剣な顔で答えた。ダルバートは、日本人だからとマイルドな味にされてしまっていたが、それでも強烈な酸味のアチャールに、意識はヒマラヤ山系に飛ばされる。

翌朝は、ブラジルに戻った。あの団地の化粧品店の隣にあった、ブラジルのダイナー〈ド パウロ〉が早朝から営業していると聞き、半信半疑で7時前に訪れると、とっくに店が始まっている。奥から出てきてオーダーを取ってくれたのが、オーナーの森本カツトシさんだった。

「本当に5時オープンなんですか?」と聞くと、「うん、4時半には開いてるけどね」と笑った。工場勤務の同胞たちが出勤前に立ち寄り、腹を満たして足早に出ていく。そのために、76歳になる森本さんは3時半から仕込みを始めている。

生まれはサンパウロ。11人兄弟の下から4番目だったカツトシさんは、1990年に日系2世として来日し、ブラジル人コミュニティで知られる愛知県豊田市の保見団地で暮らした。一度サンパウロに戻り、息子のいる大泉町にやってきたのが、12年前。ブラジルで営んでいたのと同じく、人が行き交うこの店を開いた。

会話の端々から、人生を生き抜いてきた矜持のようなものが感じられ、朝から感慨深くなってしまう。サウダーヂ。この町には、いろんな国籍の希望と郷愁、明るさと切なさが混ざり合っている。

パステールの食感に驚いていると、「生地から俺が作ってるから。みんなに分けてくれって言われる」と言う。「手作りの、こういうものが食べたかったんです」と返すと、「うん、ブラジル人もみんなそう言うよ」と笑った。

群馬〈アキエット ストア〉外観
ベトナム食材店もある。〈アキエット ストア〉の外観。