Wear

Wear

着る

「伝える職人になる」。“新参” の呉服店だからこそできた挑戦〈銀座もとじ〉

銀座の三原通りに2軒の店を構える呉服店〈銀座もとじ〉。奄美大島出身の青年が夢を抱き、一代で人気の呉服店を築きあげた40余年は、業界の常識を打ち破る挑戦の日々だった。この秋、社長業を引き継いだ二代目とともに、創業から貫く思いについて聞いた。

photo: Jun Nakagawa / text: Yoko Fujimori

21歳で羽織った大島紬に導かれ、着物の道へ

1979年創業、現在は銀座三原通り沿いに2店舗を構える〈銀座もとじ〉。創業40余年、銀座の呉服店ではまだまだ歴史の浅いこの店は、日本初の「男性着物専門店」を成功させた業界の異端児でもある。

その創業者である泉二弘明さんが銀座に出店したきっかけが、上京時に母が持たせてくれた亡き父の形見、大島紬だった。

泉二弘明(以下弘明)

僕は陸上選手を志して奄美大島から上京したのですが、怪我で挫折し、大学もやめて将来を思い悩んでいたんです。そのときふと父の形見の大島紬を羽織ってみたら、『陸上で果たせなかった夢を商売で果たしたらどうだ』と父の声が聞こえた気がして。それでこの道に入ろう、と。やるなら一国一城の主になりたい、だったら日本一の街・銀座がいいと、妄想が一気に膨らんだんです。

そうして21歳から日本橋の呉服問屋などで着物の修業を積み、目標としていた30歳のとき、念願の銀座に〈もとじ呉服店〉を開店する。マラソン選手だった弘明さんらしい、着実な目標設定と“妄想”を現実にする強い精神力に驚かされる。

前例がないから新しい発想ができる

銀座界隈で幾度かの引っ越しを経て、2000年に女性の織物専門店〈和織〉を、2002年に日本初の男性着物専門店〈男のきもの〉を開く。当時全国に約3万軒あった呉服店はすべて女性向け。いかに男物専門店が業界で異例だったか想像できる。

弘明

当時、海外で仕事をする方々から日本の文化をもっと知るために、着物を勉強したいという要望が増え、可能性は感じていました。オープンしたら、やはり目の肥えた本物を求める方がいらっしゃるので、生半可なものは出せない。それが銀座の「地力」なんでしょうね。仕入れに行っても問屋に男物はまず置いていないので、作り手のもとに出向き、自然とオリジナルを作るようになっていきました。

前例がないからこそ、「サービスや販売の方法も新たにつくっていけた」と、現在は〈男のきもの〉でシーズナルコレクションを手掛ける二代目・啓太さんが語る。

泉二啓太(以下啓太)

たとえば呉服店では反物の価格のみを表示するのが通例でしたが、お客様に分かりやすいよう仕立て代込みで表記するようにしました。また、この業界ではホテルなどを借りて展示会をすることがほとんどなのですが、「店舗はメディアだ」という考えのもと、店舗づくりをしっかりして、お店に来ていただける空間をつくったんです。店舗には木や石、紙など日本の自然素材をたくさん使っているんですよ。

弘明

「仮縫い」のサービスもそうですね。男性の着物は対丈(ついたけ=身丈と同じ長さ)で、女性のようにお端折り(=着物を折って長さを調節すること)がないから、身長を聞いてそれだけで仕立てていたのですが、仮縫いをした方が仕上がりのイメージが湧いて安心ですよね。頑固な仕立て屋さんを説得するのに1年かかりました。でも、お客様がすごく喜んでくれて。そうした試みの一つ一つが顧客を増やしていったのだと思います。

作り手と客とを繋ぐことが、呉服屋の使命

蚕の新品種・プラチナボーイの糸で織られた白生地
純国産の蚕品種・プラチナボーイの糸で織られた、神々しく輝く白生地。一反に2700粒の繭が必要となる。白生地には携わった作り手の名がすべて記されている。

オリジナル商品の開発とともに始めたのが、産地へ足を運ぶこと。地産地消やSDGsが今ほど耳慣れていなかった20年前、呉服屋が養蚕農家や織り手・染め手のもとを訪ねることは、業界の長い歴史の中でもなかったことだ。

弘明

「伝える職人になる」ことが店の理念になりました。呉服屋は着物を作るわけではないので、代わりに作り手のことを正しく伝えなくてはいけない。そのために自分の目で見て、耳で聞いて、手で触れて、学ぶことを始めたんです。

啓太

父の言葉通り、反物の背景にあるストーリーを伝え、作り手と着る方々を繋げるのが僕たちの仕事。江戸小紋師の故・藍田正雄先生から聞いた「金(=本物)は錆びない」という言葉が僕の礎になっています。作り手を輝かせることで、着物に興味を持ってもらえるだけでなく、職人の後継者を育てることにも繋がる。作り手たちと伝統工芸の新たな価値観をつくっていくことが、今後の呉服屋の使命だと思っています。

「作り手に光をあてる」活動の集大成が「プラチナボーイ物語」だろう。2007年、長い研究のすえ誕生した、細く白く、光沢のある糸を吐くオスだけの新蚕品種「プラチナボーイ」。〈銀座もとじ〉は日本で唯一、農林水産省からこの絹糸を商品化する依頼を受け、プロデューサーとして養蚕農家とともに製品づくりに取り組んでいる。2016年からは啓太さんが中心となり、「プラチナボーイ物語」がスタートした。

啓太

購入者が養蚕農家から製糸、製織の工場まで現場に足を運び、糸から反物になるまで1年をかけて製作工程を追うプロジェクトです。今、絹糸は中国、ブラジル、インドからの輸入がほとんどで、国産は1%未満。その現状をもっと知ってほしいし、そのためにもお客様と一緒に糸から作りたい、と思ったんです。

反物には養蚕農家や織り手、染め手まで製造に関わるすべての名前が記され、最後に反物の「主」として購入者の名前も記入される。「名前が残る仕事」として職人の意識にも変化をもたらし、代々受け継がれる宝物として購入者からも反響を呼んでいる。

夢の街・銀座の歴史を着物で表現していく

〈銀座もとじ〉「柳染」シリーズ
初夏に剪定される銀座の柳の枝葉を使った、色合いも美しい「柳染」のシリーズ(左、左中)。右は銀座の柳をモチーフにした型絵染。

「プラチナボーイ」と並び、〈銀座もとじ〉を象徴するのが「銀座の柳染」と「大島紬」。草木染の一種、柳染は「土地に根ざしたものづくり」というテーマのもと、1993年からスタートしたプロジェクトだ。銀座のシンボル・柳で染める〈銀座もとじ〉のオリジナル商品で、1998年からは啓太さんの母校・泰明小学校で、柳染の課外授業を続けている。

啓太

現在は僕が引き継いで、毎年5年生に教えています。「大島紬」は父の出身地ということもあり、思い入れが強いもの。5年前から〈和織・和染〉の店頭に奄美大島のはた織り機を置き、銀座生まれの大島紬の製作もしています。世界一精緻と言われる紋様を間近で見てもらい、購入者には自身の手で織り機からハサミで断ち落とす「おりあげ式」をするんですよ。

2代目が受け継ぐこと、新たにスタートすること

さて、晴れて二代目社長に就任し、今年10月には就任発表会を控える啓太さん。彼の着こなしは若い世代を着物の世界に導くアイコンにもなっている。だが意外にも、ファッションを学ぶためロンドンに留学するまで、着物には全く興味がなかったという。

啓太

ええ、むしろ着物は嫌いでした(笑)。父は学校の行事の際も一年中、着物姿ですから、同級生にからかわれて。でもロンドンでおしゃれな同級生たちが課題に着物を選んでいたり、父が着物姿でミラノの街を颯爽と歩く姿を見て、初めて素直にいいなと思えたんです。ロンドンから帰国後、銀座の店に立って感じるのは、時代の風を受けながら、常に変化を求められているということ。先ほど「金は錆びない」という話をしましたが、銀座の先輩方には「銀は錆びるもの。だから常に自分の店を磨いて輝き続けていくように」と言われます。創業者の精神や理念は大切に守りつつ、時代の風に反応していくことで次の100年に繋がっていくのかなと思います。

弘明

銀座は毎日が甲子園の決勝戦のようなもの。自分自身も切磋琢磨して磨き続けることで、目利きのお客様の目に留まる。銀座だからこそできたこともたくさんあります。21歳の妄想でこの街を目指したけれど、半世紀商売を続けて、それが間違いでなかったことがようやく分かった気がします。

最後に、親子で事業をすることについて聞いてみたら、「正直、大変なこともありますよ。お互い頑固ですから」と笑っていた啓太さん。銀座の街で育まれた「伝える職人」としてのDNAは、より新たな表現力を増して受け継がれていくはずだ。

〈銀座もとじ〉泉二弘明、泉二啓太 全身写真
本日のコーディネイトは、弘明さん(左)は綿薩摩と東京手描友禅の帯、小紋の羽織で。啓太さんは「まるまなこ」柄の下井紬に、「プラチナボーイ」で作った西陣の帯を合わせて。