今泉力哉は日本の恋愛劇の新しい旗手だ。彼が作る映画はたいていの場合、恋愛を主題にしている。そしてそこにいくつもの恋愛感情を映している。例えば2019年に公開され、ロングランを記録した『愛がなんだ』。
恋人でも何でもない、自分をいいようにあしらう男に、一方的に熱を上げる女を中心にして、この作品は5人の男女の間を交錯する、決して実を結ばない恋心を描き出す。
「みんながみんな“好き”って伝えられるわけじゃないじゃんか。本気で好きだから逆に言えないってこともあるだろうし……お互いがそれでいいならいいんじゃない?」(劇中の台詞より)
ここでは片思いが、相思相愛に至る手前の未熟な恋情としてではなく、一つの恋の形として扱われ、また尊重されている。
かと思えば、14年公開の『サッドティー』はこんな具合だ。総勢10人以上の男女が登場し、てんでばらばらな恋のなりゆきを見せるこの群像喜劇で、二股をかけている自堕落な男は、見知らぬ女に一目惚れして恋人を捨てた友人に言い放つ。
「正しい恋愛なんてねえんだよ!」
果たして恋愛とは、「好き」とはいったい何なのだろうか?「好き」に、いいとか悪いとか、正しいとか間違ってるとか、そういった尺度は有用なのだろうか?
今泉力哉の恋愛映画は、観る人に「好き」とは何かを突きつけ、価値観を揺さぶり、そのうえであらゆる「好き」を拒まない。片思いも二股も横恋慕も、彼の映画では一概には否定されず、すべて「好き」に包摂される。
つまり彼が映画を通して語るのは、「好き」は人それぞれでいいじゃん、ということだ。10人いれば10通りの、100人いれば100通りの「好き」があるし、当然、その分だけ多様な関係性がある。
「2人にしかわかんない関係性みたいなものもあったりするじゃん。ねえ?」(『愛がなんだ』より)
そして「好き」を媒介にした関係性は、16年の『退屈な日々にさようならを』において、ここには既にいない男と、亡くなった彼を思い続ける女との関係性にまで拡張された。
結局のところ、今泉力哉は人それぞれの「好き」を肯定することによって、人それぞれの生き方を肯定しているのだろう。最大公約数的な恋愛関係を育めない、時に周囲から眉をひそめられたりする、非常識で、怠惰で、駄目な人々の生き方を、彼は肯定しているのだ。
その考え方はたぶん彼の演出のスタイルにも通底する。
長い間、インディペンデントの領域でワークショップなどを土台に作品を作ってきた彼は、まだキャリアの浅い役者たちを多数起用しながら、彼らから驚くほどみずみずしい、嘘のない芝居を引き出してきた。彼の演出は役者たちをありきたりな型にはめたりしない。
人それぞれでいいじゃん。役者たちの芝居もそう言っているみたいに見える。