最初に挙げたいのが、“スタイリング映画”として素晴らしい『ローマの休日』です。
オードリー・ヘップバーン演じるアン王女が、宿泊先のお城を脱走することから物語は動きだすのですが、その時、彼女はブラウスとスカートといういでたちなんですね。
だけど、時間を追うごとに、髪を切り、ブラウスの腕をまくって襟のボタンを開ける。仲良くなった新聞記者とベスパに乗る有名なシーンでは、首に巻いたスカーフが風になびいて、自由な感じが伝わってきます。
つまり、彼女の心がどんどん解放されていっていることを、着こなしの変化で視覚的に表現しているんです。
この手の物語の場合、『ワンダーウーマン』をはじめ、民衆に溶け込むために洋服を買う姿を描くのが定番ですが、本作はそういう楽な演出に頼らないのがすごい。
なので、ヘップバーンは作中で3着くらいしか着ないんですが、着こなしの工夫だけでここまでの物語を表現するあたり、“スタイリング映画”だなと。
衣装の数を絞ることで登場人物の人柄を表現するということでいえば、『ザ・フライ』もそう。
「テレポッド」というマシンを開発中の天才科学者が主人公なのですが、あるシーンで彼のクローゼットの中が映ると、同じ服しか入ってないんですよ。
そのことによってわかるのは、この人が洋服のことを考える時間も惜しむほど研究に没頭していることと、天才が持つ狂気。登場人物が着ているわけではないけど、小道具として劇中に登場する衣装は“出衣装”と呼ぶのですが、その使い方の教科書のようなシーンだと思います。
あと、個人的に偏愛しているのが、『ファイト・クラブ』。
社会に飼い馴らされ、ブランドものではあるけど個性のないスーツに身を包んだ男が、謎の男タイラー・ダーデンと出会う。
そのタイラーが着ているのが、70年代から飛び出してきたようなケミカルな色のレザージャケットです。なぜレザーなのか?たぶん彼自身のマチズモやケダモノ性をテクスチャーで表しているんでしょう。
ブランド品に中指を立てるタイラーに触発された主人公は、社会性を逸脱していくにつれ、ネクタイを緩め、スーツという鎧を脱ぎ捨て、最終的に裸になる。
結末を知った後に冒頭から観直すと、物語の進行と彼の衣装の崩れ具合の関係がはっきり見えて面白い。
『E.T.』の衣装も秀逸です。
日本の少年たちが本格的にアメカジに触れるきっかけとなった作品ではありますが、それだけじゃない。特に注目したいのは、主人公が赤いパーカを着て、フードをかぶっていること。
ここでのフードは、幼くて柔らかい存在である自分を守るためのシェルターとして機能していると思うんですよ。
そうした幼さやある種の反社会性の表現としての“フード映画”っていうのはほかにも山ほどあるので、誰かに研究してほしいくらいです。
衣装は物語を駆動する
一つの推進力。
最近の作品でいうと、TVドラマですが、『僕らのままで/WE ARE WHO WE ARE』は「ここまでスタイリングを前面に押し出した作品がこれまであったか?」ってくらい衝撃を受けました。
本作の主人公の青年は、明らかにそれとわかるブランドものの服を着ているんですよ。コム デ ギャルソンとかラフ・シモンズとか。
だけど、イタリアの片田舎の米軍基地に暮らしていて、音楽や文学が好きだという設定がしっかりしているのでまったく嫌みじゃない。
しかも、どれも物語設定の時代よりも古いシーズンのものなので、「メルカリみたいなもので買ったんだろうな」という、世代的なリアリティも垣間見える。これには膝を打ちました。
最後に日本映画で1作入れるなら、北村道子さんが衣装を手がけた『メゾン・ド・ヒミコ』ですかね。
やっぱり道子さんが日本映画の衣装に与えた影響っていうのは、絶大だと思うので。この作品について言えば、田中泯さん演じる元ゲイバーのママですよね。
それまで映画の中の“女装”というと、“トッツィー”的な表現が多かったと思うんですが、本作ではその人物の美意識をしっかり反映した、美しい花柄のガウンやターバンをまとっている。
最近、同性愛者を面白おかしく描くことに対する批判が盛り上がっていますが、この映画は20年近く前に同性愛者の現実的な衣装を表現しているんだから、革命的ですよね。さすが、道子さんだなと。
いずれにしても、観客の目に映るもので勝負する映画にとって、衣装は一つの大きな推進力になります。観客は映っている人物の着ているもので、無意識のうちにその人がどんな人か判断してしまうので。
だからこそ、時に過剰なノイズにもなるし、ミスリードすらさせる力があるわけです。ただ、物語の中で衣装がうまく機能している作品は、映画としても面白いことが多いと思います。