人の内側にぬるりつるりと入り込み、心をあわ立たせ、時には支配すらすることばの魔力。そんな力を存分に体感できるゾッとすることばで書かれた小説と詩歌と映画について、春日武彦先生、教えてください!
「ことばにゾッとさせられるのは、一つはことばの意味が微妙にずらされて新たな意味や価値が生じる時。こちらの想定と違う形でことばが繋がったり現れたりすると、これまで気づかなかった場所にどうやらとんでもないものが潜んでいるぞ、と心が脅かされます。
作家の残忍さにグッとくることもあれば、生理的嫌悪に震えることも、不意打ちのおっかなさというのもある。忘れがたいのは中学の時に辞書で引いたハンプティ・ダンプティの項目です。“擬人化された卵で、塀から落ちて起き上がれなかった”としか書かれておらず、起き上がれなくてそのあとどうなったの?とすごく怖かった。あると思っていたものがそこにないという欠落もまた、読み手の想像を促進して恐怖を作り出すんですね」
内田百閒『無絃琴』所収「殺生」
死はどんな色をしているのか?想像力を押し広げる名人の技
思春期の百閒が動物をいじめる随筆の最後がこれ。死の瞬間に色が変わったというんだけど、ここで物質レベルの話が「死」という状態の話に切り替わっている。直前の鮒(ふな)や蟹(かに)のところでは白やら青やら出てくるのに、この部分だけパートモノクロになって、何色に変わったのかが書かれない。
この欠落がたまらなく怖いんだけど、これは文章だからこそできる技で、短いなかに取り返しのつかなさやある種の絶望感さえ漂っています。すごく視覚的な場面でありながら色にはあえて言及しない、この引き算の巧みさは、俳句もうまい百閒ならでは。
高柳克弘『未踏』
17字に込められた無限が読み手の心を揺らして動かす
作者が23歳の時に詠まれたこの句には、若さや野心や果てしない可能性が込められている。若さにみなぎっていたら胸を張って読める句だし、自分が23歳の時にこの句を読んでいたらきっと共感したと思います。でも60代にもなって人生くたびれてくるとね、無限なんていう想像さえも及ばないものに立ち向かおうとすることが気色悪く思えてしまうんです。
無限に対してうろたえるのか、逆に勇気づけられるのか。これこそ俺の応援歌だ!と感じる人もいれば圧倒されてしまう人もいる。読み手の心を引っ掻き回すという意味でも名句だと思います。
深沢七郎『極楽まくらおとし図』
なんだこれ?ことばへの違和が読み手を物語の奥へ導く
「まくらおとし」ということばの、なんとも言えない気持ち悪さ。なにしろここにゾッとさせられます。どこかの地方を舞台にした短編で、まくらおとしっていうのは枕を押し付けて窒息させるという、年寄りを苦しませずに大往生させる民衆の知恵のようなもの。恐ろしい風習がそっと受け継がれている、作者の代表作『楢山節考』にも通じる世界です。
そんな実態については何も知らず、たまたま単語の音だけを耳にした若者が絵を描いたらしいという場面。字面だけではおっかないんだかエロいんだかよくわからないし、得体の知れないもののネーミングとしても絶妙にかっこいい。作者の気色悪い発想にうっとりします。
ジュリアン・バーンズ『人生の段階』
悲しみによって変容した連想に導かれて、人の心はどこへ行く?
妻を失って悲しみにとらわれた小説家が、そこから立ち直ろうとして書いた自伝的な一冊です。だけど、女房の乾燥肌と女房の墓標の乾燥を繋げるなんて、哀しみゆえに連想の働きがおかしくなっているでしょ?
もともと私は連想というものに強い興味があるけれど、この生々しさにはゾッとさせられるし、痛切さに心を動かされもする。見ようによってはある種のユーモアさえ感じさせる文章で、この多様性がまた、非常に上質。この人の書くものはとにかくかっこいいんですよ。感情により、受け取り方により、世の中なんていくらでも違うものに変容し得る、その不安定さにも気色の悪さを感じてしまいます。
小池昌代『自虐蒲団』所収「読書会のひそかなよろこび」
日常に潜んでいた異形の存在がことばによって姿を現す
ある女性編集者が参加する読書会のお題が「山海経」。いわゆる中国の怪獣図鑑なんだけど、これを読書会で使うなんてどうやらただ事じゃないぞ、とまずはゾワゾワワクワク。抜粋は、漢字がびっしり書かれたテキストを眺めるうち、漢字の中に怪物がいるのではと思い当たる場面。画数の多い漢字は気持ち悪いという、自分が漠然と抱いていた感覚がことばで表現されることに新鮮な驚きがあって、ゾッとしながらもスッキリします。
一見すると知っている部首を組み合わせているようで、起源もよくわからず未解明の要素も多い西夏文字にも似た不気味さ。小池昌代は、禍々しい話をしれっと書いてみせてくれる作家です。
高原英理『怪談生活』
甲殻類恐怖症を狙い撃ちするオノマトペの力に震えおののく
ただただ擬音が怖い!ストーリー以前に、「いざいざ」にゾッとします。一体どこをどうやったらこんなものが出てくるんだ?と思うけれど、言われてみればこれしかないと思わせる説得力もある。数あるオノマトペの中でも、この嫌さ加減は断トツじゃないでしょうか。
私は甲殻類恐怖症なので恐怖が倍増するんだけどね。そもそも蟹の口の構造ってよくわからない。やつら、土左衛門を食べたりするくせに口が曖昧ってどういうことなんだ?とも思うし、それなのに食べ物はちゃんと取り込まれていくというのも気色悪い。ちょっとずつ噛み砕いていくんだろうか、などとつい考えさせられてしまう、トラウマ級の表現です。
島尾敏雄『硝子障子のシルエット』所収「三つの記憶」
数十年経ってもなお恐ろしい、鮮やかに人を斬ることばの力
初めて読んだのは大学生の頃で、夜中にうなされるほどの衝撃を受けました。特に、金魚の玩具の赤色の毒々しさを「凶悪なものの胚種」と書いてみせる、この表現力!幼い頃の不安な気持ちにピントがシャープに合っていて、へたな怪談の100倍も恐ろしい。
島尾敏雄という作家は、こんなふうに不意打ちでものすごいことばを投げ込んでくるんです。後ろに「それは私をひどくおびえさせた。自分をふくめて周囲の一切のものに、そのとき、私は不信の感情を植えつけられた気がしてならない」という文章が続くんだけど、こういったある種のトラウマを抱えていない人生なんて、寂しいしつまらないんじゃないかと思います。
粒来哲蔵『穴』所収「百舌」
散文詩のなかで生まれることばの新しい意味に恐怖する
エイってお腹にもう一つ顔がありますよね。フェデリコ・フェリーニの映画『甘い生活』で、海岸でエイの死体を見ていやーな気分になるという場面があったけど、生きていたって死んでいたってとにかく気色が悪い。その顔を指して「はにかんでいる」と表現するところに、詩人の天才と残忍さが透けて見えます。
そもそもエイはほかの表情を浮かべることができないうえに、鉄鉤で吊り下げられているというとんでもない状況。さらに百舌(もず)に「何故体が菱形なのか」なんて質問されているんです。そこに「はにかむ」ということばを当てはめるという、微妙で巧妙なずらしによって新しい意味が生まれる。詩人の力技に感服します。
フラナリー・オコナー『フラナリー・オコナー全短篇(下)』所収「パーカーの背中」
不全感を肯定する生々しい恐怖。これは自分の身に起きたことだ
アメリカ南部文学のグロテスクな残酷さの系譜に連なるフラナリー・オコナー。悪意文学ならオコナーから始めよう!と呼びかけたくなるくらい、素晴らしくひどい話ばかりを書いています。ここでは、主人公が何に感動したかというと、祭りの見世物で全身に入れ墨を入れた男を見て興奮しているの。
人生で初めての感動がそれというのは物語としてはわかる。でも怖いのはそのあとの盲目の少年のくだり。自分が抱えている不全感の源がここにあるというか、自分もこんなふうに神様の悪意によって方角を変えられて、明るい場所に出られずにいると思っているから、すごく生々しい恐怖なんです。
川上弘美『龍宮』所収「荒神」
ことばの魔力に身を任せれば神様の姿が見えてくる?
異形と日常を平然と繋げてしまう、川上弘美という作家にはそんな怖さがありますね。「荒神」という短編は台所の神様について書かれているんだけど、この神様がどう考えてもゴキブリなんだよね。荒神というのは、なんとなく聞いたことはあるけど微妙に得体の知れない存在で、身近な虫の名前をそれに変えるだけで異様な物語が立ち上がってくる。
ネーミングによってことばの意味をずらすというワンアイデアで作られた小説集ですが、一冊を通してそれが貫かれていて、ちゃんと全部が気持ち悪い。「走り出る」なんて書かれたらその姿すら見えてしまうのだから、さすがのうまさだと思います。
『籠の中の乙女』
ことばを違えて洗脳する、神のごとき暴挙に出る父母が怖い!
2人の娘と1人の息子を敷地に閉じ込め育てる父と母。異様な家族生活を描く映画の冒頭に登場するこの台詞(せりふ)が気に入っています。両親は子供に誤ったことばの知識を与えて洗脳しているんだけど、いくつかある置き換えのなかでも「海」の怖さは格別です。
というのも、海を全く違った概念で捉えて言い表している人がいたら確実に変人として扱われるだろうし、その人とのコミュニケーションは成立しないと根本的なところで感じるでしょう?さらに、一生囲うなら不必要なはずの言葉の攪乱に、我が子を変形させたいという親の支配欲が表出していて、なんとも薄気味悪い。悪意の表現が最高です。
『殺人の追憶』
幼い少女のことばが、非日常と日常の境目をぐらりと揺らす
1986年にソウル近郊で起きた連続殺人事件をテーマに撮られた映画です。事件を追うも解決できなかった刑事パクが17年後に現場を通りかかり、無念さを覚えながら、かつて遺体が捨てられていた用水路を覗き込む。すると少女が現れ、この前別のおじさんも同じようにして「昔自分がここでしたことを思い出して久しぶりに来てみた」と言っていたよ、と告げます。
その人の顔を見た?どんな顔だった?と問うパクに少女は「何て言うか…よくある顔」と答え、どんなふうに?という問いに「ただ──普通の顔」と答える。非日常的事件が日常に侵食してくるかのような薄気味悪さにゾッとします。
『血を吸うカメラ』
死の瞬間を覗き見する男の、おぞましい心の内を覗き込むのは
覗き見を意味する『ピーピング・トム』を原題に持つ、英国のサイコスリラーです。主人公のマークは、映画スタジオの撮影助手をしながら、隠しナイフ付きのカメラで女性を襲っては女性が死ぬ瞬間の顔を真正面から撮影することにひそかな快楽を覚えているという孤独な青年。ある時、そんな秘密の生活を盲目の女性が直感的に見抜きます。
そして禁断のフィルムをひそかに映写する彼の前に現れたその女性が放つのがこの台詞。自分の心の中にあるおぞましさは、常識を超えた形で他者に知覚されかねないというこのメッセージは妙に生々しくて、観ているこちらの気持ちまで脅かされます。
『何がジェーンに起ったか?』
狂気を帯びていくジェーンの姿に、自分を重ねて見てみると……?
子役スターのジェーンと、その陰で耐えながらやがて実力派として認められる姉ブランチの物語。ジェーンの人気の凋落(ちょうらく)で姉妹の力関係は逆転、でもブランチは人気の絶頂で下半身不随になってしまいます。
一方ジェーンは過去の栄光が忘れられずに一緒に暮らす姉に意地悪を繰り返す。不意に業界へのカムバックを思い立ったジェーンが頼りにするのは「すべてを失っても才能は残る」という亡き父のことば。白粉を塗りたくったグロテスクな老婆となったジェーンの姿を見ると、自分を支えるささやかな根拠にも根本的な思い違いがあるのでは、と不安になる。