歴史ある
都心のラグビー場にも収益性?
昨年末、こんな見出しのそれほど大きくはない記事が報じられた。
「新秩父宮ラグビー場、完全密閉型に 音楽イベント利用も」(朝日新聞 2020年12月25日)
東京の外苑前駅から徒歩数分の距離にあるラグビー専用スタジアムの移転と、それにともなうリニューアルの概要が協議によって決したことを伝える内容だった。曰く、歴史的な背景をふまえて「秩父宮」という名称を引き継ぎ、ラグビー専用競技場として維持し、ワールドラグビーの国際基準をクリアしたサイズと設備を整え、全天候型スタジアム、つまり屋根をつけるというもの。その上で、こうも書かれていた。
「東京ドームのような完全密閉型か、メットライフドームのような屋根と壁の間に空間がある形にするかは未定だった。完全密閉型の方が音楽イベントなどで利用しやすく収益性が高まる上、市民の防災拠点としても活用しやすくなる点が決め手になったという。(中略)これまで天然芝だったグラウンドは人工芝になる。事業費は、当初見込みの約200億円から倍以上に膨らむ見通しで、民間投資を受ける形となる」(同)
期待や歓迎のむきもある一方で、一部のオールドファンは疑問の声をあげた。雨や風などの天候をどう生かすかも、ラグビーの確かな要素のひとつだったし、それこそが感動を生み出したとまでは言わないが、ドラマの陰影を色濃くしたのは事実である(1987年の国立競技場の雪の早明戦!)。
また諸説はあるが、人工芝のサーフェイスは選手への負荷が増える可能性があるとも言われている。そして、ラグビーの愛好家の汗と執念の歴史が宿る競技場を、取り壊してしまうことに少なからず寂しさを感じてしまうのだった。ありし日のラグビーへの郷愁と言えばそうかもしれない。モダンな競技場を整備して収益化を図ることは、スポーツとビジネスの合理的な着地点でもあるだろう。つまりファンであればこそ、感情は入り交じってしまうのだった。
ひたぶるに
自分たちの心のふるさとを……
改めてここに記しておきたい。秩父宮ラグビー場が完成したのは1947年11月のこと。敗戦後に神宮競技場が米軍に接収され、ラグビーの試合は神宮や後楽園の野球場でやりくりするしかなかった。そこで専用球場建設に立ち上がったのが、当時の関東ラグビー協会理事長の香山蕃氏を中心としたラガーマンたちだった。戦前より大学を中心にラグビーをプレーし、愛し、戦後は近代の日本のラグビーを支えた人たちでもある。
建設費は当時の金額で150万円。着手金は30万円。大卒の銀行員の初任給が220円で、ましてや預金封鎖の状況下。資金調達は難航を極めると思いきや、「早慶明立東五大学OBはその苦しい時に一週間で二十五万を捻出」。さらに戦災火災保険金の5万円を加えてどうにか工面を果たしたという。当時のことを振り返り、香山氏はこう語った。
「その集めた資金は血のにじむような尊い結晶であった。あるものは時計やカメラ、またあるものは家のじゅうたんを売ってひたぶるに自分たちの心のふるさとをきずきあげようという情熱に燃えた。工事が始まったある日、雨のふるなか秩父宮様がこられご病身を顧みずゴム長ぐつを履かれて励まして下され、鹿島(*)の関係者に“ラグビー協会は貧乏だからよろしくたのむ”と頭を下げられました。私は流れる涙をこらえることが出来なかった」(『近代ラグビー百年』池口康雄著)
*工事を担った鹿島建設のこと(筆者註)
資金が捻出できない者は「勤労奉仕により」競技場建設を助けたという。近代の日本ラグビーにまつわる美談である。無論、だから取り壊すなというわけではない。ラグビーがスタジアムを独占し続けるべきでもないだろう。ただスタジアム建設においては、かつてそうだったように、スポーツへの愛が芯にあってほしいと思う。半世紀以上前の建設では「自分たちのこころのふるさとをきずきあげようという情熱」に支えられ、やがて聖地となった。さて、半世紀後はどうか。願わくば、再び建て替えが惜しまれるスタジアムに。