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ミュージシャン・玉置周啓の、絶対に捨てられない1冊。福田恆存『人間・この劇的なるもの』

ずっと本棚に並べておいて、時折開きたくなる本がある。幼き日に世界を広げてくれた児童書に、不思議な縁で結ばれた小説、自分の指針となった哲学書。ミュージシャン・玉置周啓さんの、どうしても手放せない1冊とは。

illustration: Fukiko Tamura / edit: Emi Fukushima

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煙い名曲喫茶で遭遇し渋谷で差し出され再会

タムラフキコ イラスト
『人間・この劇的なるもの』福田恆存/著
思想家であり、劇作家や文芸評論家としても活躍した著者による人間論。生きるとは、自由とは、個性とは、幸福とは……人間が抱える複雑な感情の本質を、「劇的な人間存在」というキーワードによって解き明かそうと試みた一冊。新潮文庫/539円。

私は満遍なく本を読んでは、満遍なく忘れる。あまり格言めいたセンテンスが身体に沈澱するようなことはない。しかし、本の周辺には素晴らしい体験が常にある。名曲喫茶ライオンという大音量でクラシック音楽を流す店によく通った。店内に漂う紫煙に便意を促されては、アンサンブルに加わることのないよう足音を潜め便所へと向かうのが常だった。

或る日、用を足して自席に戻る道すがら壁沿いにいくつか置かれた書籍を発見し、何となく一冊を手に取った。題して『人間・この劇的なるもの』と云うこの本は、シェイクスピアの翻訳の第一人者が古典劇に準(なぞら)えて人間を語る随筆である。

なかでも、人間にとっての本当の自由とは与えられた役割を演じきることである、という言葉に撃たれ、時間も忘れて読破した。私のためにこの本は存在している、と劇的な出会いに鼻息を荒くしていたのである。その鼻息は、足音よりも大きかったという。

それから数日後、楽器に関する取材で知り合った編集者の方から誘われて酒を飲むことになった。本来の私に一度会ったきりの編集者と飲むほどの社交性はないが、言葉選びや思考回路に信頼と共鳴を感じたわけである。席に着くなり、彼は「是非読んで欲しいものがある」と或る本を差し出した。それは『人間・この劇的なるもの』だった。

「これ、実は最近たまたま読んだんですよ」虚を衝(つ)かれた彼が自然と笑顔になった。これ以上ない流れで語り合った夜はまるで演劇のようで、私はまた鼻息を荒げたのである。その鼻息は、楽器よりも大きかったという。

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