小説家を志す自分を安堵させた絶望の書
いやなことがあったり、絶望しているときのほうが本が読める、と気づいたのは大学を卒業しフリーター生活も板についてきた二三、四歳のころのことだ。身も蓋もない言い方をすれば、現実がしんどいから、集中して本を読むのである。考えたくないし、思い出したくもないから、普段以上に神経を研ぎ澄ませて、活字の世界に入り込む。
フーコーの『言葉と物』は失恋しているときに読んだ。それまで哲学書なんてほとんど読んだことなかったのに、最初から最後まで、「なるほど」と深くうなずきながらページをめくった。
フーコーは「エピステーメー」という。それは我々の言葉や考え方を規定する、目に見えない、知の枠組みのようなものであり、何人たりともその枠の外へ出ることはできない。わたしたちは言葉を自由に用いて、なにかを表現したり、批評したり、しゃべったり、歌ったりしているように見えるが、それはあくまでこの「エピステーメー」に従ってであり、わたしたちは決して自由なんかではない。
それは読む人からすれば気が滅入るような指摘であるかもしれないが、若いぼくにとっては心の底から安堵するようなことでもあった。それはつまり、世の中には飛び抜けた天才など存在し得ないということであり、みながみな、同じような言葉をつかい、同じような考え方で、なにかをつくったり、表現しているということなのだった。
そのころ、ぼくは小説家を目指していた。毎日がとても苦しかった。