寺山修司の書が導いた“そと”への眼差し
わたしの前には、いつも彼がいた。
彼に詩を教わり、彼に世界を見る目を与えられた。彼の名前は、寺山修司といって、わたしが生まれたころにはもうこの世界にいなかった。だが、彼はたしかにこの世界にいた。彼の言葉があり、両手でひっかいた跡があり、彼がひらいた世界があった。わたしにはそれでもう充分だった。わたしは夢中で彼を追いかけた。
彼は、世界なんて言葉でつくりかえてしまえばいいとでも言うような、軽やかさがあった。現実が虚構で、虚構が「ほんとう」であった。わたしはますます書物の中に身体を沈めた。彼が描き出した、あるいは「つくりかえた」世界は、すばらしかった。うつくしくて、残酷で、おかしくて、豊かだった。何も食べないでも、生きていけるような気さえした。だが、そうではなかった。
彼は、軽やかに見えて、決して浮遊していなかった。自身の生きる社会に根を下ろし、つねにそこから思考していた。時代への意識といってもいいかもしれない。それはたとえば、多くのひとが気にかけていないふりをしている戦争の匂いへの意識であり、現代においてより加速度を増した新自由主義的なものへの抵抗でもあった。
寺山は、何度も「書を捨てよ、町へ出よう」と言う。彼もまた、わたしのように書物の幸福に充足していたはずだった。書物から生まれ、書物に育てられたはずだった。だが、それでもなお、いや、だからこそ「書を捨てよ」と言うのだろう。
「書物のそとで」というエッセイがとても好きだ。ぜひ読んでほしい。