冒険の扉を開いたのは初めてねだった大判本
私は今ニューヨークに暮らしている。ラーメン1杯4000円を超えるで有名な、アメリカで最も物価の高い街。英語も流暢でなければ仕事のあてもないけれど、やって来た。当然ながら日本の案件ばかりを続けているから、時差に苦しみながら死に体の円をシコシコと稼いでいるわけだ。ハタから見れば「なんでそんなことを?」と思うだろう。
実を言えば、当の私自身が「なんでこんなことを?」と思いながら、スーパーで1セントでも安い林檎を探し回っている。それもこれも、表面がぬらぬらと光る、カバーがやけに硬くて厚いのに開けてみれば100ページほどにしかならない、あの『十五少年漂流記』のせいなのだ。
突然だが、私は親に何かをねだる、ということをしない少年だった。それは多分、家計が逼迫(ひっぱく)していると子供ながらに思っていたからだろう。母が極端に倹約家で、イトーヨーカ堂の婦人服売り場に行くたび、ベージュのズボンを試着しては「やっぱり似たのを1本持ってました」と店員さんに返却していたのをよく覚えている。そんなこともあって、私は親戚にもらったお年玉をこっそり母の貯金箱に投じ、兄のお下がりをさも嬉しそうに着る子供になった。
あまりにも自分の望みを言わなかったがために、サンタクロースa.k.a.両親は聖夜のプレゼントを決めあぐね、私のベッドの脇にぶら下げられたプレゼント受け取り用ビッグ靴下の中に、普通のサイズの靴下を忍ばせたのは事件だった。
当時小学生だった私は、クリスマス翌朝の学校で仁義無きプレゼント自慢合戦に巻き込まれ、「靴下」と言うこともできずにただ泣いた。共働きの両親にとって、小学生の望むものを探り当てるのは至難の業だったろう。けれど、それにしたってデカ靴下の中に普通靴下を入れるというのは一体どういう了見だったのだろうと今でも訝(いぶか)しく思う。ロシア出張にでも行ったばかりだったのだろうか(マトリョーシカ)。
話は逸れたが、そう、私が初めて親にねだったものこそ、件(くだん)の『十五少年漂流記』なのである。あれは、耳鼻科を受診した帰り道だった。慢性的なアレルギー性鼻炎を抱えていた私は、定期的に近所のクリニックを受診していた。そこの医師が少しおかしかった。私が嫌がることばかりするのである。
鼻の通りをよくするために、とにかくわけのわからない器具を鼻にぶっ込んでくる。私が泣けば泣くほど喜んで、次から次に変なものを入れるのだ。クリニックを出る時にはいつも顔をパンパンに泣き腫らして、母に連れられて帰った。その道中に小さな書店があった。
ある日、なぜだかわからないが私たちはそこへ入り、私はレジカウンターの奥右上に立てかけられていた大判の書籍に目を奪われたのだった。15人の少年たちが、表紙を通してこちらに歪(いびつ)な笑顔を向けていた。なぜそれがそんなにも私の心を掴(つか)んだのかはわからない。けれど「あれが欲しい」と言った時の、母の驚きと喜びが入り混じった顔を忘れない。
そして私はそれを何度も何度も、ぬらぬらの表紙がもっとぬらぬらになるまで読み込んだ。結果、このような冒険おじさんが誕生したのである。