末期がんを患った化学教師・ウォルターが麻薬王になるまでを描いた『ブレイキング・バッド』。その脇役だった悪徳弁護士と麻薬カルテルの前日譚となるドラマシリーズ。複雑な人間模様と、テレビドラマの常識を覆す“シネマ”としての完成度で、前作の衝撃を乗り越えたスピンオフだ。
14年に及ぶ“アルバカーキ・サーガ”が
ついにクライマックスへ
佐野亜裕美
このシリーズは私がプロデューサーになった頃に始まったんです。だから同業というよりも、ただのオタクとして感謝の気持ちで観続けてる。もはや青春です。
宇野維正
佐野さんは舞台となったアルバカーキまで行ったんですよね?
佐野
2020年の2月にサンタモニカに短期語学留学したときですね。Netflixの撮影現場を見学し、UCLAの脚本講座を受ける中で、ふと思いついて。ニューメキシコまで飛行機で行き、現地で車を借りて3泊4日一人で回りました。
ガスのチキン屋さん〈ロス・ポジョス〉や、ダイニングルーム〈エルカミーノ〉、ウォルター先生が置き去りにされた砂漠の場所も座標を調べて行きましたね。
宇野
ガス欠でもしたら、シーズン5の8話のソウルとマイクのように砂漠を延々歩くことになる(笑)。
佐野
街も治安が少し悪くて、モーテルに泊まるのもドキドキでしたが、地方都市に生きる人たちの物語を実感できました。日本には地方で撮ったドラマが少ないですよね。『カルテット』は軽井沢でしたが、やはり大変で。
宇野
予算もスケジュール管理も一苦労ですよね。でも、地方で同じ時間を過ごしながら撮るから、キャストとスタッフがファミリーになれる。
佐野
そうなんですよ。『ブレイキング・バッド』の続編にあたる映画『エルカミーノ』のメイキングで、ジェシー役のアーロン・ポールが「急に呼ばれたけど、家族のために喜んで飛んできたよ」と語ってて。そんな関係になれたら幸せでしょうね。
宇野
佐野さんは青春と言いましたが、2008年に結婚した僕にとっては夫婦生活とともにあったシリーズです。ウォルターにとことん感情移入してましたよ、「家族のためにこんなに仕事で手を汚してるのに、妻は何もわかってくれない!」みたいな(笑)。
『ベター・コール・ソウル』が描くソウルとキムの夫婦関係はまた違う。お互いに良い影響を与え合うだけじゃなくて、悪に引っ張り合うさまが生々しい。
佐野
わかります。私も夫の「悪いことはしても、ダサいことはしない」という価値観に侵食されて、持ち前の遵法精神が少し揺らぐので(笑)。
宇野
僕も過去に付き合ってた女性はことごとく僕のモラルの低さに悪影響を受けてしまって(笑)。
妻は良くも悪くも僕から影響を受けない人だから、続いてるのかもしれないなと思ったり。一方、最終シーズンのソウルとキムは、もはやどっちが破滅に引っ張る側なのか、わからなくなってきている。
佐野
ソウルの悪巧みに巻き込まれてきたキムが、いつのまにか先導していますもんね。この「いつのまにか」の描き方も巧みで、気づいた頃には後戻りできないのもリアルです。あと、この作品は、人間の不完全さを描いている点も好きです。
今の日本のドラマは製作者も視聴者も人間の不完全さを許せなくなってると、脚本家の渡辺あやさんと話したことがあって。善悪にとらわれない複雑な人間の本質を、容赦なく描く『ベター・コール・ソウル』のような作品は貴重だと思うんです。
テレビドラマを凌駕する
“シネマ”としての挑戦。
宇野
ナチョ役のマイケル・マンドが、今シーズンの3話配信日に「Cinema♡」とツイートした通り、画面の暗さや引き画の多さ、セリフの少なさ、編集スタイルなどは、シネマそのものですよね。
佐野
このエピソードは46分という時間も見事で、一番良いところで終わらせる潔さが最高でした。
ナチョの見せ場は普通のドラマなら54分くらいにするところ。映画とドラマのいちばんの違いって、時間表現に表れると思うんですが、この最終シーズンは特に時間の使い方が映画的で素晴らしかった。
宇野
時間という点では、シーズン序盤の展開の遅さには最初戸惑いました。でもその「遅さ」こそが、製作側のやりたかったことなんですよね。
今のTVシリーズはプロット詰め込みまくり、クリフハンガーの連続で視聴者を釘づけにする。『ベター・コール・ソウル』はそのトレンドに逆行していた。それゆえに、ファイナルシーズンで重要人物がバタバタ退場していくショックとカタルシスがとんでもない。
佐野
この緩急はちょっとこれまでのドラマにはありませんでした。タメと落としがすさまじいです。
宇野
映画的という点で言うと、個人的に印象深いのはシーズン4の最終回です。マイクがドイツ人技師のヴェルナーを殺すシーンがキレッキレで。夜空の陰影と超ロングショット、荒野に響く銃声、あんなの大スクリーンとしかるべき音響設備じゃないと十分に味わえない。
それでもこのクオリティの作品を配信するのは「俺たちはシネマをやるから、覚悟して観てくれ」という視聴者への挑戦ですよ。
佐野
14年かけて築いた視聴者との信頼関係があるからできることですね。製作者としては本当に羨ましいです。
宇野
だからこそ新規参入を勧めにくい(苦笑)。長年の信頼はもちろん、『ブレイキング・バッド』で登場人物に愛着を持ったことが前提になるから、「『ベター・コール・ソウル』だけでも観てくれ」とは言えなくて。
佐野
『ブレイキング・バッド』も10年以上前だから、特に序盤は古くさいところもあって、海外ドラマを観慣れてる人はむしろ気になるでしょうし。でもそこを乗り越えてほしい(笑)。
宇野
『ベター・コール・ソウル』は意外と賞を獲ってないんですが、普通に考えてこの最終シーズンで、総なめにするはず。下半期は『ベター・コール・ソウル』の話で持ちきりになるから、その前に観るべきですよ。
視聴者との信頼関係
ショーランナーへの憧れ
宇野
それにしても、この先の展開がこんなに予想できない作品も珍しい。
佐野
毎回友人と予想するんですけど、一度も当たらないです(笑)。
宇野
『ブレイキング・バッド』を観てればわかるように、『ベター・コール・ソウル』でソウルとキムは別れるわけですよね。
問題はそれが死別なのかどうか。モノクロパートでソウルの未来を描くじゃないですか。僕は、そのパートでキムと再会するハッピーエンドを期待してしまうんです。
佐野
でも、ハワードのことがあって、キムが死ぬっていうフリがかなり効いてしまってる。本作にハマったのはキムの存在が本当に大きいので、死なないでほしい……。
この14年、ここまで熱狂できた作品がなくて、次にハマれそうな作品も見つからないので、最終回で燃え尽きそうです。
宇野
ストリーミングサービスが乱立し、インパクト重視のリミテッドシリーズで新規を取り込むビジネスモデルが確立した今、『ベター・コール・ソウル』のような作品はますます生まれにくくなっていますからね。
佐野
まさに過渡期ですね。
宇野
とはいえ、リテラシーの高い視聴者が数百万人いるのはアメリカの強みです。
例えば、日本だと回想シーンがないと視聴者がついていけなくなるけれど、『ブレイキング・バッド』と『ベター・コール・ソウル』は回想シーンがないのは当たり前で、その逆にアバンタイトルで数エピソード先のシーンまで見せる。
それができるのは熱心なファンがネット上で考察する点がかなり大きい。読み解く視聴者がいるから、複雑な語りが許される。
佐野
あと、ドラマプロデューサーとしては本作にはショーランナー・システムの魅力も感じるんです。
宇野
佐野さんもある種ショーランナー的な動き方をしてませんか?
佐野
私は脚本家と雑談をして燃料投下する編集者的な役割かな。ドラマ制作には3つのプロセスが必要だと思ってて。
『ベター・コール・ソウル』でいうと、製作総指揮のヴィンス・ギリガンとピーター・グールドという天才がアイデアを出す第1段階、それを数人のスタッフと共に広げる第2段階、そして最後に製作者自らの指揮で実現する。
日本にも天才が書いて撮るこのシステムがあれば、そのプロセスがスムーズになるはずで。坂元(裕二)さんならできると思うんですが……。
宇野
やってくれなそう(笑)。とにもかくにも、過渡期に入ったピークTV時代の大きな一区切りとして『ベター・コール・ソウル』を見届ける視聴者が日本にも増えるべきですよ。
佐野
私もこりずに勧めます!
まずはチェックすべき
『ベター・コール・ソウル』を生み出した2作品
『ブレイキング・バッド』
「僕が本作にハマったきっかけは、車がことごとく魅力的だったから。大衆モデルのボロボロの車を、キャラクターの分身として描く。この態度は『ベター・コール・ソウル』でも一貫しています」(宇野)。
『エルカミーノ』
ウォルターのバディ、ジェシーのその後を描いた映画作品。「普通ドラマシリーズの映画化って浮き足立つのに、この作品はとことん地に足が着いていてかっこいんです。淡々と進むのに、抜群の演出で2時間魅せられっぱなしでした」(佐野)。