お金じゃない。
情熱と時間が最大の武器なんだ。
「美術館というのは、そもそもコレクターが築き、コレクターが支えてきた。いわばコレクションのコレクション」(ルース・ファイン/ワシントン・ナショナル・ギャラリー 元・現代美術学芸員)
美術館は国や地方公共団体が建て、予算を決めて運営するものと思う人がいるかもしれないが、実はむしろコレクターたちの寄付がもとになり、それが始まりだったりする。
アメリカでは顕著なのだが、日本でも例えば国立西洋美術館なら、川崎造船所(川崎重工業の前身)社長だった松方幸次郎による松方コレクションが根幹をなしているし、東京国立近代美術館本館はブリヂストン創業者の石橋正二郎個人が谷口吉郎設計による建物を新築し、寄贈したものだ。
ニューヨークの1LDKアパートに住む元・郵便局員の夫ハーブと元・図書館司書の妻ドロシーが自分たちの給料だけで4000〜5000点もの同時代の美術作品を集め続け、国立の美術館も目をみはる美術コレクションに仕立て上げた。
集めたものは最後まで一点も売却することなく、蒐集した全点をワシントン・ナショナル・ギャラリーに寄贈し、さらにその美術品は全米50州の50の美術館に各50点ずつ収蔵されることになった。
アメリカ人の好むサクセスストーリーというよりも現代のおとぎ話と言った方がいい「すごくいい話」をドキュメンタリー映画で綴ったのが、ニューヨーク在住の映画監督/プロデューサー、佐々木芽生さん。2本の映画『ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人』(2008年)と『ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの』(2013年)である。
ニューヨークのアートシーンではちょっと目立つ存在だったというハーブとドロシー。ギャラリストの小山登美夫さんも美術展オープニングなどでときどき見かけていたと話す。
「(彼らが)尊敬され、驚嘆されるのは、美術を買うということが彼らの生活の〈すべて〉になっているからだ」
佐々木監督自身はそもそも現代アートに詳しいというわけではなかったそうだ。ハーブとドロシーに出会ったのは2002年、NHKの教育番組用に現代美術家のクリスト&ジャンヌ=クロードの展覧会番組を撮影したときのこと。
その作品群がハーブとドロシーが寄贈した「ヴォーゲル・コレクション」の一部であることを知り、2人の人となりを聞き、蒐集歴、そしてナショナル・ギャラリーに寄贈したいきさつがわかると衝撃と感動に打ちのめされた。
「自分の情熱を見極め、それに従ったとき、自分が思いも寄らない場所に到達できる」ことを彼らに教わったと佐々木監督は語っている。
アートのコレクターと聞くと、一般にはその行為は投資対象だったり、資産リスクヘッジの一手段とする人々、あるいはアートを利用して社会的なステータスを誇示する資産家や成功者たちだろうとの先入観がある。
ところが、純粋にアートを愛し、アーティストを慕い、資産的価値や時節の流行などと離れて、アートと向き合うコレクターがいるなんて。
さっそく佐々木監督はカメラを回し始めた。映画の構想を立てるよりも早くだ。パナソニックのデジタルビデオカメラを携え、三脚すら持たずに彼らを追いかける。
それまでも、何人もの映像関係者から「ドキュメンタリーを撮りたい」というオファーがあった。しかし、資金が集まったら戻ってくるので、撮影を始めよう、と言って彼らは二度と訪ねてこなかった。
監督は映画を撮るだけではなく、2人のアパートに通い、ときにはファクスの用紙を換えたり、飼っている熱帯魚や亀の世話をしたり、一緒に食事をしたり、話し相手になるなど交流を深め、まるで親子のように接した。
撮影が進んでいくと、プロのカメラマンを雇うなどして、予算は4倍に膨らみ、佐々木監督は貯金をはたき、それでも足りずに所有するアパートを抵当に入れて借金をして撮り続けた。
そうして完成した第1作『ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人』は世界で30ヵ所を超える映画祭に招待され、5つの最優秀ドキュメンタリー賞や観客賞を受賞。全米60都市はじめ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、日本などで劇場公開された。
第2作『ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの』は、彼らのコレクションを全米の美術館に分散して収蔵しようという計画「ドロシー&ハーバート・ヴォーゲル・コレクション:50作品を50州に(50×50)フィフティ・バイ・フィフティ」と、2人の「コレクションの終わり(完成)」についての記録である。
コレクションはどう生まれ、育てられ、そして終わりを迎えるのか。それはまるで、子育てのようであり、人生そのもののようでもある。
第2作の冒頭のシーン、子供たちが美術館を見学に来ている。見慣れない現代美術を前に、独自の解釈をしたり、題名をつけたりしている。大人よりも柔軟な発想や物事にとらわれない自由さは微笑ましくもあり、希望でもある。
しかし、見方を変えると、モノはモノとしてそこにあり続け、それを取り巻く人々は確実に成長し、年を取り、やがて去っていくことを象徴しているかのようだ。往々にしてモノは人々よりも長く存在し続ける。
コレクターは誰でも、ときに、集めたものの行く末について思いを巡らすことがあるだろう。それは美術品、工芸品、宝飾品など一般に誰にとっても価値があるとされるものなのか、あるいは個人の思い入れはあるが金銭的な価値は認められないものなのか。
そんなことは実は関係ないのだ。誰かが気づき、思い入れを込めて、集め続けたものはその集積自体が価値を生む。
例えば、ブリキのおもちゃというのはかつては子供に与え、遊ばれ、壊され、捨てられていくものだったが、あるとき、大人たちに郷愁を感じさせ、愛されるようになり、市場で高値で取引されるようになったのは周知のとおりだ。
ハーブとドロシーもただ美術を愛し、それを自分の部屋で毎日眺めたいと思ったのがコレクションの動機である。いつか美術館が驚くようなコレクションを一斉に寄贈してやろうなどとはつゆほども考えていなかった。
そもそも、彼らが蒐集したミニマル、コンセプチュアルアートというのは抽象表現主義やポップアート全盛の当時、まだまだ評価のされない、もしかしたらキワモノで終わるジャンルだったかもしれないのだから。
蒐集することは生きることなのだ。ハーブは晩年、振り返って言う。
「僕にとって、人生はアート史。当時、僕のしたことは歴史の1ページだ」
蒐集は長い美術史の中の1ページを担うための手段だったのかもしれない。映画タイトルロゴにはハーブとドロシーのシルエットが描かれているが、第1作ではステッキをついていたハーブは第2作では車椅子に座っている。ちょっと悲しい。そして、映画製作中の2012年夏、ハーブはあと3週間で90歳になるというとき、息を引き取った。
それはコレクションの終焉でもある。ドロシーは「2人で作ったコレクションだから、私の手で薄めたり、変えたりしたくない」と語り、以後、購入をやめ、アーティストからの寄贈を断った。
コレクションは無数の段ボールに詰められ、美術館に運ばれ、2人が暮らしたアパートの床も壁も見えるようになった。
その直前に、ドロシーが言う。
「白い壁を見るのが楽しみよ。ペンキを塗るの。そして広々とした部屋でシンプルに暮らしたい。ソファを置くわ」