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建築家・内藤廣の自邸。家は、積み重ねた時間を受け止めるうつわである

つくり手と住まい手、2つの視点が育てる家。建築家の自邸を紹介。

Photo: Hiroshi Naito / Text: Masae Wako

無口だけれど表情は豊か。知的で温厚で人を拒まない家。そんな〈住居No.1 共生住居〉は、〈海の博物館〉や〈牧野富太郎記念館〉、新しい〈銀座線渋谷駅〉の設計で知られる内藤廣さんが34歳で建てた自邸である。住宅デビュー作だから〈No.1〉。ちなみに最新の住宅作品は〈住居No.42〉だ。

竣工は1984年。内藤さんが5歳の頃から住んでいた鎌倉の木造平屋家屋が手狭になり、祖母から子供まで4世代8人からなる2つの家族のための2世帯住宅に建て替えた。以来、家族構成の変化に合わせて2度の改築を重ね、今は内藤家3人が暮らしている。

「独立したばかりでほぼ無一文だったから、坪単価の安い木造の家を29案も考えた。でもどれも違うんだよ。納得がいかない。未来に自分たちがどう住んでいるかを全くイメージできなかった」

当時はまだ、自由度や強度の高いCLT(直交集成材)のような木材もない時代。いくらプランを工夫しても古い型にはまってしまう。ならばいっそ、とコンクリートでどこまで安くできるかに挑戦した。最低限の構造体をコンクリートでつくり、開口部に建具と仮設的な木製パネルを入れただけ。限界ギリギリの方法で完成した超ローコスト建築が、内藤さんの住宅第1号となった。

「暮らしは変容する。家族のエネルギーや生活が膨らむ時期と、小さくなっていく時期があるものです。我が家は4世代が共に暮らし生活もどんどん膨らんでいたから、それを型に押し込めてしまう家より、開放しておける家にしたかった。どう変わるかわからない未来を受け止める、最低限の道具立てを用意しようと思ったんです」

なかなか悪くないプランだった。ただなあ……と苦笑いで、竣工時に開いたささやかなお披露目パーティの様子を振り返る。

「建築仲間を招いたら、みんなキョトンとしてるの。“捉えどころがない。よくわからない”という様子なんだね。建築雑誌の編集者には、“作家としての意図がまるで見えない”とまで言われた」時代は個性と野心をガツンと押し出した“作品”が主流の80年代ド真ん中。「にもかかわらず自己主張がない。変な建築家がつくった変な家に見えたんでしょう」

でもまあよく住んできましたよ、と、2度のリノベーションを経た現在の家でそう笑う。

3年前には2世帯を1世帯に改築。2世帯間の仕切り壁を取り払ったことで空間の奥行きがぐっと深まり、景色にも豊かなグラデーションが現れた。リビングは2つ。若い頃旅をしたアフガニスタンやイランのラグがある東側のリビングと、数年前に出会ったガンダーラの仏頭が掛かる西側のリビングと。

ゆるやかにつながる空間に、この家で過ごしてきた時間がひそやかに蓄積されている。家の中心にある階段部分は吹き抜けだ。山型のトップライトから落ちる光が随所に届いて気持ちいい。「吹き抜けがあると、家全体が一つになるじゃないですか。北側の部屋にもちゃんと心地いい居場所ができる」

ここでどう過ごすか。その時間が家を育てるんです。

住宅は、変化し続ける暮らしを支えるうつわである、と内藤さんは言う。人がそこで過ごす時間こそが家をつくり育てていく。

「だから、必要なのは作家性じゃないんです。例えば京都の町家。誰が建てたのかわからない、でもあの空間と暮らし方が成熟した町の文化をつくったわけでしょう。成熟した空間というのは、そこで死んでもいいと思える空間ですよ。自分がいなくなっても次に誰かが住んでくれるというような、長い時間軸をイメージできる空間。

家は個人のものでもあるし、町をつくるものでもあるからね。自分のためだけに建てて20年、30年楽しく暮らせばいいという感覚の家を否定はしないけど、それはあくまで“仮の住まい”。

僕は“終の棲み処”に暮らしたいし、時間が蓄積されることで強く美しくなる家をつくりたい。ここも“変な家”なりに、積み重ねてきた時間を受け止めてくれている感じはある。やっぱり悪くない家だと思います」

建築家・内藤廣 自邸 外観
鎌倉に立つ内藤邸は築36年。コンクリート躯体を水平垂直に組み、建具で仕切っただけのローコスト住宅だ。家族の変化に応じ2度改築したが、黒い雨戸も深い軒も当初のまま。

〈住居No.1 共生住居〉
1984年竣工、95年、2017年に改築。所在地/神奈川県鎌倉市。規模/地上2階。構造/鉄筋コンクリート造。敷地面積/462㎡。建築面積/147㎡。延床面積/248㎡。