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あの頃のアーケードゲームを求めて、高田馬場〈ゲーセンミカド〉へ

子供も大人もゲームセンターへ通ったあの頃。今もその光景が広がる都内唯一の場所を訪ね、シーンの見届け人に聞いた“ゲーセン”の今。

photo: Takao Iwasawa / text: Hiroyuki Iwai

JR高田馬場駅から徒歩2分の場所にある〈ゲーセンミカド〉。1階にはレースやリズムゲームなど比較的見慣れたゲーム機が置かれているが、2階に上がると「ミディタイプ」と呼ばれる筐体がずらり。1990年代のゲームセンター文化を象徴するアーケードゲームが、100台ほど配置されている。

「2009年に高田馬場に店を構えてから、毎日いろんな人が遊びに来てくれています。90年代にゲームセンターに通って遊んでいた大人や、ガイドブックを握り締めて大量のブラウン管を興奮気味に眺める海外のお客さんも。みんな、“ここでしか遊べない、あの頃のアーケードゲーム”を求めて集まってくるんです。いつの間にか“ゲーマーの聖地”と呼ばれるようにもなりました」

そう話すのは、〈ミカド〉の池田稔店長。シーンに最も活気があった1995年頃からゲーセンスタッフとして働いてきた彼は、子供の時からアーケードゲームに親しみ、刻々と移り変わる景色を見届けてきた。

「小学生の頃は『ゼビウス』、中学生時代は『ダライアス』にハマり、高校生になってからは、みんなが熱狂した『ストリートファイターⅡ』に当然のめり込んで。社会人になったら、今度は『バーチャファイター2』に給料を注ぎ込み……。

振り返ると、自分にとって大きな存在の作品は、ゲームセンター文化における重要作ばかりでした。どれも大人も子供も夢中になっていた作品だし、ゲーセンという場所を起点に大きな“うねり”が生まれていた。僕はそれを目撃してきたから、今でもそれがゲーセン本来の姿だと思っているんです」

小学生でゲームセンターへ通うようになり、そこで姉のクラスメイトたちに声をかけられ、ゲームが上達すると褒められた。憧れる人たちに認められ、交流を持つ喜びを感じる……ゲームセンターは、かけがえのない場所だった。

そして、ハイスコアを記録すれば名前が店の壁に張り出されたり、対戦格闘ゲームで隣同士になった人と言葉を交わしたり。かつて自身が青春を過ごした時代と似たムードが、今の〈ミカド〉にも漂っているという。

「日替わりでタイトルを替えて、店内でゲーム大会を開いているんですが、40代くらいの常連たちに交じって、初心者の学生が遊びに来てくれたことがあって。試合後に“いい戦いだったね”“今の技どうやって出したの?”と先輩が声をかけ、それをきっかけに連れ立って遊ぶ仲間になったりもする。店内にあるお客さん同士の交流ノートを面白がって、見ず知らずの人同士がゲームを話題にやりとりをしていたり。ゲーセンでそういう瞬間に立ち会うと、“これだよ、これ”と嬉しくなりますね」

遠くにいてもゲーセンを起点に広がっていく、同志の輪

自身が体験してきた興奮や感動を、若い世代にも伝えたい。池田店長は、そうにこやかに話す。

「2000年以降、家庭用ゲーム機が主流になってからはゲーセンの主役はクレーンゲームになった。でも、僕を育ててきたのはやっぱりアーケードゲーム。楽しくて刺激的なゲームにも、同じものが好きな面白い人たちにも出会えるのがゲーセンだと思います。

正直コロナ禍を乗り越えるのは大変だったけど、クラウドファンディングを通して支えてくれた人たちもいて。店でゲームをする人だけじゃなく、その中には大会の配信映像を画面越しに観ている人たちもいた。そう考えると、もしかしたら昔よりも大きな輪が広がっていく可能性もある。だったら面白いし、ワクワクしますよね。これからもこの場所を残していきたい、大きくしていきたいという気持ちでいます」