Talk

Talk

語る

民俗学者・赤坂憲雄×作家・川上弘美。文学に描かれた「食」と「性」に迫る

文学と民俗学のあわいを行き交いながら、食と性とが交わる場所に眼を凝らした『性食考』の赤坂憲雄さんと、『大きな鳥にさらわれないよう』で生殖や男女、家族のまったく新しい形を描いた川上弘美さん。小説や絵本の中に登場する、性と食について、そして書くことや読書という快楽について。初顔合わせの2人に語ってもらった。
初出:BRUTUS No.861『危険な読書』(2017年12月15日号)

photo: Masaru Tatsuki / text: Keiko Kamijo

民俗学者と小説家が
文学に描かれた食と性に迫る

川上弘美

最初に芥川龍之介の恋文の「ボクは文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまひたい位可愛いい」という部分を紹介されていて、あとがきで学生から教えてもらったとあったんですが、彼女はどんなニュアンスでこの文章を教えてくれたんですか?

赤坂憲雄

いま、僕は学習院大学の日本文学科にいるんですが、「食べる」と「交わる」というテーマで本を書いていることを学生たちは知っていて、何か情報を見つけると持ってきてくれるんです。でも、何か特別に説明するとかはありません。

川上

赤坂さんが女の人から「食べちゃいたいくらい愛しています」っていうラブレターもらったらどうします?

赤坂

怖いですよね。

川上

私も相当怖いなって思ったんですよ。そして、男性が女性に出すラブレターならこう書く可能性はあるのだろうけど、反対の可能性はほぼないなと感じました。赤坂さんのあとがきに、周囲の女性のまなざしがあったから「男を宙吊りにすること」へ関心が傾斜していったと書かれていました。

赤坂さんがご自身の男性性について揺れながら書いている過程が展開されていたことが、何より興味深かったです。

赤坂

結論が見えて書いているわけではないのでずっと揺れていましたね。

川上

小説は私小説じゃなくても“私”として書くものだと思いますが、赤坂さんがお書きになるような評論的な文章には、普通、“私”性はあまり出ない。でも、性や食、生死について考える場合、かなり自身に深く潜ってゆかないと書けないのではないか。そのあたりはいかがでしたか?

赤坂

すごく露骨な言い方をすると、他人のセックスって知らないですよね?AVは嘘だし、自分の体験しかない。基本的に自分のことしか知らないということを根拠として書くべきだと感じていました。本の中でサルトルを引用していますが、サルトルの性をめぐる態度は、女性恐怖。そういうのが、全部見えちゃうから怖いんです。

秋田県の大湯環状列石
TOHOKU "Oyu stone circle" August 2008 Kazuno, Akita ©Tatsuki Masaru

川上

「サルトルその人の精神分析が必要なのかもしれない」という赤坂さんの言葉もありましたね(笑)。フィクションだったら他人事になってしまうところが『性食考』を読んでいると、自分はどうだったかな?としょっちゅう立ち止まってしまって。そこがすごく刺激的でした。このテーマに辿り着く前はカニバリズムにご興味があったそうですが、なぜですか?

赤坂

それがね、わからないんです。10年くらい前にカニバリズムの本を集めていたんですが、なぜ集めていたのかも覚えていない。一生懸命、カニバリズムを入口にして何かに辿り着きたいと思っていたはずなんですが、震災でそれがすべて色褪せてしまいました。

川上

それはご自身の中でどういうことが起きたからなのでしょうか?

赤坂

食べるということをめぐって、震災後にいろいろなものが露出したんですね。僕は震災前からずっと遠野に通っているんですが、震災の年には、飲み会の席で刺身とかを食べるのが嫌だと言う。みんな知ってるんですよね、陸に上がらなかった死体が魚たちに食べられていることを。

でも、一人の漁師の「だから俺は食べる」という言葉に出会って、震災前から同じようなことを東北で繰り返し聞いてきたなと思い返したんです。何人かのマタギが聞き書きの時に、ぼそっと漏らすんですよ、「最後は俺が食われる」と。そういうことかと思いました。自然と向き合ううえでの覚悟みたいなものを持っている。漁師さんの言葉を聞いた時、あらためて食べるって何なんだろうと考えざるを得ませんでした。

川上

とすると、きっと震災以前は、文化的風習や餓えの環境下のものではなく、現代社会の中でのカニバリズムを論じようとしてらしたんですね?

赤坂

それまでは事件として顕在化したものしか意識していませんでした。震災を経て、僕らが生きている日常の中にも繋がっていくものがあると気づいてから、食べることをテーマにした本をあらためて集め始めたのです。

すると、“食べること”と“殺すこと”というテーマは多かったんですが、“食べること”と“交わること”が論じられている本がきわめて少なかった。だから自分でやってみようと。

アワビ
FISH-MAN "Ear shell" June 2014 Hachinohe, Aomori ©Tatsuki Masaru

川上

子供の本の中に登場する食べるシーンはセックスの暗喩であると聞いたことがあります。

赤坂

児童文学研究者にとっては常識のようですね。

川上

私は児童文学がすごく好きで高校生になっても繰り返し読んでいたんですが、食べる場面が生き生きしている本の快楽が大きくて。好きな本の中には、必ず食べる、料理をするシーンが登場するなと。『性食考』を読んでいて、子供にとってセックスの快楽に匹敵するのは、食べるだけじゃなくて料理もなんだと気づかされました。

赤坂

『ぐりとぐら』だって『ちびくろさんぼのおはなし』だって、料理をします。

川上

バターがそこにあるだけじゃダメなんですよね、その後にみんなでホットケーキを焼くからいいんですよね。

赤坂

グリム童話の『蛙の王さま』も、なぜ蛙が姫と一つの皿で食事をすることを強要するのか。それは一つのベッドで寝ることに繋がっていく。そうした食べることと交わることの秘められた繋がりは至るところにある。でも、ちょっと顕在化するとすぐに隠されてしまう、そういう形でしか語られていないという感じがしましたね。

神話や伝承の中では、生のままで食べるということがほとんどなくて、調べていくとあらゆるところで料理をしたうえで食べている。レヴィ=ストロースはそれを、野生を文化に転換する仕掛けだと言っています。トミ・ウンゲラーの絵本『ゼラルダと人喰い鬼』は、ご存じでしたか?

川上

先生の本で初めて知りました。

赤坂

彼は食と性に対してかなり意識的な、変わった作家ですね。子供を食べるのが好きな人食い鬼が料理上手な女の子と出会って、その子を食べるのではなく最後は結婚してしまう。

川上

料理版『千夜一夜物語』みたいですね。

赤坂

自分を食べようとした鬼を、料理の力で腑抜けにして結婚するって、すごい展開ですね。そんな感じで、『性食考』を書いていた時は否が応でも自分の中の性や食と向き合わざるを得ませんでした。

川上

私も読んでいて、自分の中の野蛮なもの、原始的なものが開放されるような爽快さがありました。

そこでは、食物は口をふさいでくれる詰めものである、と断言されていた。そうして食べることは交わることへ、性欲の問題へと移行してゆく。女の性器の猥褻さは、「口のあいたものの猥褻さ」であり、みずからの穴への侵入と溶解によって存在の充実をもたらしてくれる、外からやって来る肉体を呼びもとめるのである。

いずれにせよ、サルトルにとって、女の性器は口であり、しかも、「ペニスをむさぼり食う貪欲な口」である。そうして、性愛は男には去勢の現場とならざるをえない。それはなによりもまず、女の性器が穴であるからだと、サルトルはどこか苦々しげに、悲壮感すら滲ませながら書いたのであった。

赤坂憲雄『性食考』より

森の中をさまようように、
世界を探っていく読書の愉悦

赤坂

「性と食」をテーマにして本を書こうとした時に、論文や研究書ってほとんど役に立たなかったんです。だから絵本や小説、アニメや漫画に向かわざるを得なかった。すると、果敢に闘う現代の作家たちが見えてきた。でも、あんまり広げすぎたら本が終わらないのでとりあえず納めました。出版後も今回の対談のようにたくさんのことを教えていただいて。

川上さんの『大きな鳥にさらわれないよう』は、とても面白く読ませていただきました。

川上

ありがとうございます。

あと、あいつはおれを食うのが好きなんだよ。うまいんだって、おれは。そうだよ、あいつも、食べるってことを、とっても楽しみにしてる奴なんだ。

え?自分を食わせることは、普通のことなのかって?

ほんとにあんたは、普通ってことにこだわるね。

食わせる奴もいれば、食わせない奴もいるよ。それはもう、好きずき。おれは、子供以外には、あんまり自分を食わせたりしないけど、生殖相手のFで、合成のできるFとは、お互いに食いあったことは、時々あったね。

川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』より

赤坂

この本は、どこに連れていかれるのかわからず森の奥へと手探りで分け入っていくように読みました。一番いい読書ですよね。すごく楽しかったし、怖かったし、ドキドキしたし、こういう世界があり得ることに深く悦びを覚えました。宮沢賢治を思い出しましたね。賢治もイーハトーブという大きな世界を思い描きながら手探りでその世界の小さな風景を一つずつ浮き彫りにしていく。すごく理系的なんです。

たとえば『風の又三郎』も、徹底的に科学的な論理で考え尽くしたうえで、大気の大循環の中で小さな風のある情景を積み重ねていくような書き方をしている。川上さんも理系ですよね?

川上

はい。特にこの本では理系が噴出してますよね(笑)。

赤坂

まったく。それからもう一人、岡本太郎さんを思い出しました。太郎さんは動物系だと思っているんですが、写真集を見ると動物ばかり出てきて、比喩の現場にも植物や樹木はほとんど見られない。おまけに自画像が牛ですからね。川上さんは生臭くはないけれど、動物系だなって思いました。ところで、この本を書き始めた時はどこまで見えていたんですか?

川上

最初の章の『形見』は、短編として書いたんです。そうしたら次がすぐに出てきて、私にしては珍しくこんな感じかなと全体像を考えて書いていきました。地震の後、生態系の中での人間についてたびたび考えるようになったんですね。それでぽろりと出てきた話です。今自分ならこういう話を読みたいと思いながら書きました。

赤坂

最初はSFだなんてまったく思わずに、いつしか数千年の時間の中に誘い込まれていました。短編集として組み立てられていますが、どんどん点と点とが繋がっていく、計算しているとは思えなかった。

川上

この本では、かなり意識的に伏線回収をやりました。本のテーマについてよく聞かれるんですが、敢えて単純に言うなら、どの本にも共通するのは「生きる歓び」を書くこと、なんです。でも、生きる歓びって何?って考えると、さっぱりわからなくなっちゃって。それを書くためにとにかく手法をいろいろ試しているんだと思う。

私自身が好きで読むことが多いのは、あんまり解きほぐされていない、どこに行くかわからない、立ち止まらせてくれる本で、赤坂さんの本にもそんな印象を受けました。解決した方が気持ち良いんだろうけど。

赤坂

そういうものを求めている読者は、僕らの本を拒絶するでしょうね。

川上

最後になってもよくわからないんだけど、1年に何回かはそのわからなさを思い返す。ちょっと時間が経って読み返すかもっていう。それは読書という快楽の一つですよね。

赤坂

読み返すと思います。『森へ行きましょう』とは感触が全然違いますね。川上さんに弄ばれているような。

川上

(笑)。弄んでしまいましたか。

研究室の若い学生などのそばに行くと、このごろルツは驚いてしまう。かれらは、物理的に若いのだ。その細胞も、その皮膚も、その骨格も、その筋肉も、おそらくその内臓や内分泌腺や生殖器も、とても新しいのだ。

(エネルギーに満ちてる!)

と、ルツは気圧されてしまう。そのかれらの傍で、やたらにほてったり冷えたりしている自分が、生物として衰えてきつつあることを、ひしひしとルツは感じるのである。

「今夜こそ、焼肉に行きませんか」

と、神原俊郎が誘ってきたのは、そんな時だった。

川上弘美『森へ行きましょう』より

体験と想像は異なる、
宮沢賢治をめぐる性

赤坂

内容は皆さんに読んでほしいので説明しませんが、不思議な本でした。だから、賢治を思い出したのかなと。

川上

私、宮沢賢治って小さな頃怖くて読めなかったんです。子供って、いわゆる大人が怖いっていうことは案外怖がらない。そういうことよりもただ風が吹いていることとかが怖い。子供の世界ってすごく混沌としているから、自分と同じような混沌を見せられると同調してしまって怖くなるんじゃないかと思いました。賢治の混沌はすごい大きくて。思想性とかとは別に、体で感じる。あれは何なんでしょうね。

赤坂

変わった身体感覚の人だったんでしょうね。本にも書きましたが、賢治は春画を蒐集(しゅうしゅう)していたんです。調べによると800枚くらいあったらしい。

川上

800枚!それはすごいですね。どんな種類の春画だったかはわかっているんですか?

赤坂

わかりません。全部始末されちゃっていて、公表されていないんですよ。でもね、賢治の春画ってすごく大事なことだと僕は思っているんです。

川上

大事ですよね。それは作家がどんな食べ物を好んだかというのと同じくらい大事なことだと思います。

赤坂

でも賢治は童貞だったから、体験的には語れないはずです。それなのに教え子の高校生に春画を広げて性教育をしていた。それは真壁仁さんが実際に教え子の方から聞き書きをしていることなので、事実だと思います。

川上

経験の有無と想像力は、まったく関係ないと思います。私も賢治の性教育の授業、受けてみたいなぁ。

赤坂

そうですよね。本物の女性を知らないんでしょうとかツッコミを入れたりして(笑)。賢治は文学的なイマジネーションが、実践を超えるほどに、本当に深いところに辿り着いてしまう人です。僕は震災後に文学の力や芸術の力を、もう一度信じてみたいなと思ったんですね。

原発の事故が起きた時、政治も経済も科学も、学問の言葉はみな本当に無力でした。でも、文学の中には時折、途方もなく深いところに降り立った言葉が見出される。それを信じてみたいと思ったんです。

川上

文学がどうかはわかりませんが、“言葉”にはその力があるような気がします。私は『大きな鳥にさらわれないよう』を書きながら、もう今の世界で大きいものを動かすことは不可能だと感じ続けていたんです。誰も全体の仕組みを把握していないんだと。

世界の仕組みが変わってしまったという感覚は、絶望感にも繋がるし、同時にこれから先私たちはどう生きていったらいいのかという好奇心にも繋がる。

赤坂

この物語に出てくる人たちは、自分の限られた世界しか知らない。そこから旅に出て、3つの目で鼻がない人たちを見た時には許せなくて毒を流す。でも、その末裔たちは別のところで生き延びている。世界ってそういうふうに、つねに生成と消滅を神話的に繰り返しているのかもしれない。

川上

原初の地球はそうだったんですよね。

赤坂

僕らは情報をシャワーのように浴びて、何でも見たつもりになっているけど、実は何も知らないんですよね。この小説のように、真っ暗闇の中懐中電灯で照らしながら足元を探り、世界をやわらかく感受しようとしている人たちがいる。世界の全体を神様の視点で見ている人なんていない。それが面白かったですね。

川上

書いていても面白かったです。読書体験ということで言うと、さっき混沌としたものが好きって言ったんですけど、私、わかりやすいエンターテインメント系の本も大好きなんですよ。でもね、どんなわかりやすい物語の中にも、それが本の形になって現れたからには作者のすごく独特な視点があるはずです。そこを「あった!」って発見するのが楽しくて。

読書って、決まりがないところが面白いし、怖い。自分の本棚は、恥ずかしくて人に見せられないですよね。あなどれる本なんて一つもないなあと思います。

赤坂

わかりやすいハウツー本みたいな情報は、もうネットで調べればいい。世界は謎めいて広大です。今回、川上さんの本に出合ったように、どこに連れていかれるかわからない怖い本はたくさんあって、読書はやめられませんね。

民俗学者・赤坂憲雄、作家・川上弘美